2014年05月30日

2014年6月号  経済成長策としてのImPACTプロジェクト、ロボットを考える  新しい技術が社会に受容される仕組みづくりの重要性 - 高橋琢磨

要旨

アベノミクスにおける経済成長策の一つに、DARPAモデルを一部とりいれたImPACTと名打つプロジェクトがある。一方、首相はロボットも成長政策の柱の一つだと言及している。ロボットが高齢化問題を初め日本が抱える課題解決の大きな鍵を握っていることは確かだ。だが、首相はImPACTとロボットとを組み合わせ経済成長策に仕立てよといっているわけではないだろう。ここでは、デュアルユースのロボットという開発対象をとりあげ、DARPAモデルのフレームワークが人々の思考のなかに入ることにより、フクシマで経験したようなタブーが消え、発想が豊かになり、ロボットの社会受容性も高まることが期待できることを論じよう。つまり、こうした柔軟な思考フレームワークを最大限に活かして、軍事用途、災害・危険物対応、医療、生活支援など、様々な用途を想定しながらも、「ロボットに限らず」、新しい技術がうまく社会実装できるような“モデル”を日本が作っていくことが望まれるのだ。

〈キーワード〉
DARPAモデル、ImPACTプロジェクト、ロボット、ロボットダーレン、ユーザードリブン・イノベーション、デュアルユース

はじめに:アベノミックスと革新的研究推進プログラム(ImPACT)

第2次安倍内閣が打ち出したアベノミックスには、3本の矢があるとされる。だが、最も重要とされる第3の矢としての経済成長政策の姿が見えてこないと言われて、久しい。このため、アベノミックスには成長政策がないのではないかとの懐疑も生まれている。これに対し、安倍首相は、OECDの議長国として行った基調演説の中で、アベノミックスには成長戦略があると反論し、そのなかにロボット、革新的研究推進プログラム(ImPACT)などの語をちりばめた。
安倍首相が100%消化して言及したのではないにしろ、頭の良い官僚が成長政策の新しいキーワードになるとして選択したからには、それなりの意義があるものだろう。革新的研究推進プログラム(ImPACT)が採用された背景にある問題意識としては、次のようなものだ。成功の喜びを味わうというよりも失敗を恐れがちになる日本では、目標水準を下げた課題設定をしておいて、それをクリアーし、めでたし、めでたしで終わることが多い。ここは、アメリカの国防省の研究所、DARPAにならい、産業や社会の変革につなげられるハイリスクではあるが開発に成功すればインパクトも大きい挑戦的な研究開発を設定し、その課題の解決にむけて研究開発のデザイン力・マネジメント力とトップレベルの研究開発力とを結集しようではないかというのである。
安倍首相の言及した、ロボット、インパクトのある開発目標という2語の「最大公約数」をとれば、それはすでに、日本社会が直面する課題解決のために期待されることの多いロボット分野の開発にあたって、社会にインパクトのある開発目標を掲げることの意味を説いたNEDOの文書の中にある。また、革新的な研究開発の課題設定は誰がするかといえば、DARPAのモデルを参考に、総合科学技術会議(CSTP)が設定するというものだ。だが、これはいかにも失敗を恐れる官僚の作文である気配が濃厚である。
では、安倍首相の発した2語は、どう考えるべきなのか。武器輸出3原則の見直しによって、これまでタブーと見なされてきたDARPAモデル、ロボットという2項目の「最小公倍数」として発想し、成長政策の一つの考え方とせよということではなかろうか。つまり、新しくDARPAモデルをとり入れることにより、フクシマの事故を振り返り、自由な発想なり、逆に開発の規律なりが生まれるのか、それとも、それは過剰期待に過ぎないのか、デュアルユースの色濃いロボットの開発という舞台をベースに考えてみよというものだろう。

民需一辺倒時代の日本から見たDARPAモデル

革新的研究推進プログラム(ImPACT)が採用されたことから、DARPAモデルが日本で注目されるようになった。DARPAモデルとは、軍事という過酷な条件のもとでの課題であることから、開発ギャップが大きく、そのギャップを埋めるような新技術が実現すれば革新的なものと言えることがある。そのアナロジーから産業や社会のあり方に大きな変革をもたらす課題をImPACTに与え、科学技術イノベーションの創出を目指そうというものだ。
大きな開発ギャップを乗り越え誕生したものの代表的なものは、インターネットであろう。軍の開発目標は単純な形で提示され、需要特定化は明確である。インターネットの原型となったARPANETも、もともとは冷戦下でソ連からの核攻撃を想定し、その一撃によってもなお機能を保つ通信システムとして誕生したからである。ネットワーク化されたコンピュータという大胆な発想が出され、そうしたネット間でのコミュニケーション・システムが開発されたのである。この軍事目的をもったシステムが、80年代にNSF(全米科学財団)の支援を得て、学術研究用のネットワークとなり、アカデミックな目的を持つものに限って利用を許されるようになり、利用が試された。その試行錯誤の中から、シスコ・システムズのルーターという戦略部品が開発され、インターネットの原型が誕生したのである。そのインターネットが今日のような巨大ネットワークに育ったのは、商用での利用が本格化し、需要の再特定化が行われたためである。だが、それが大きく発展するには、冷戦後が始まるベルリンの壁崩壊後の91年まで待たなければならなかった。このようにして生まれたすさまじい自己増殖力を持つインターネットは、世界中にまたたく間に広がった。
その他の成果を見ても、確かに、2009年に北朝鮮がテポドン2号の発射準備しているのを写しだした衛星写真の解像度でも、軍民では明確で、成果も上がっているようにみえる。また、今や商業化が可能になろうかという燃料電池にしても、シーズとしては軍事研究が役立った。しかも、プロジェクトは主契約者になれば、コスト・プラス利益方式で支払われるため、文字通り金に糸目をつけず先端の頭脳を集め開発に没頭できる。その意味では、何とか潤沢な資金を獲得して、知財・人材を支えとして研究者が研究に専念できる環境を整えたいとするiPS細胞研究所長の山中伸弥の理想とする条件のようにも見える 。
だが、コスト・プラス方式の契約は経済的な目的でコストを削減しようとするインセンティブを低下させ、そこに創意工夫を生む余地を少なくする結果をもたらした。このため、ICBMの開発の場合のように、安全保障上の理由から現場に緊張感がある場合は、それでもこのシステムは機能したが、この緊張感が失われるとこのシステムは全く機能しなくなった 。
ディジタル化の進展で苦戦をしている日本の情報エレクトロンクスの中でも、なお世界トップの地位を維持できている数少ない機器の一つ、デジタル・カメラの戦略部品であったCCD(Changed Compile Device;電荷結合素子)の開発もそのような例の一つである 。
CCDという半導体が生まれたのは1970年のことで、ベル研究所のW.ボイルとG.E.スミスが半導体の中でも情報の転換ができないかという好奇心から開発し、その成果として発表したのである。これは初めメモリの可能性として注目されていたが、1971年同じベル研のW.バートラムによってフレーム・トランスファー方式が提案され、72年にはこの方式によってCCDエリヤ・センサーが発表されるに及んで、自己走査機能を持つ大画素数の固体エリヤ・センサーの可能性が強く印象づけられた。大学でエサキダイオードを研究した越智成之がソニー入社後にアンダーザテーブルのテーマとして、これを選んだのも映像機器の小型化つまりビデオカメラの鍵となると見たからである 。
だが、越智がアンダーザテーブルで達成した到達点は64画素で、やっとソニーのSをかすかに映し出せる程度だった。しかし、越智の直訴を受けて、ソニーが中央研究所でCCDの研究を1973年に本格的に取り挙げようと決定したのは、所長の岩間和夫が電子カメラの開発に応用できる可能性を信じたからである。パソコンのSOBAXの失敗によってソニーの半導体部門が崩壊しかねない危機に陥っている中で、ソニーの半導体ここにありと言えるようなユニークな半導体をつくって外販することを考えたからでもある。岩間の与えたターゲットは「15年後に5万円のカラーカメラを開発」、しかも「フィルム・メーカーのコダックの心胆寒かしめるもの」というものだった 。越智は15人の開発チームのリーダーになった。
ディジタル・スティルカメラといいながらCCD自身はアナログIC部品である。2002年当時、ソニーはCCD素子市場の約40%のシェアを持ち、最終製品であるディジタル・スティルカメラでもキヤノンとトップを争っており岩間の夢は実現したことになる(図表1)。

図表 1  CCDの主要メーカーの世界シェア
社名 シェア
ソニー 39%
シャープ 22%
松下電器 20%
三洋電機 9%
(出所)電子部品年鑑(2003)

だが、開発は容易ではなかった。当初の目標は20万画素だった。しかし、まず世界最初のカメラの開発に成功したのはRCAだった。1974年、R.ロジャーズによってCCD固体撮像白黒カメラが発表された。ソニーでも原理的な物体は出来たが、いわゆるスタッキング・フォールトと呼ばれる現象のため、鮮明な画像が得られなかった。その欠陥をほぼ取り除く事が出来たのは76年になってからだった。77年に研究プロジェクトは、厚木の半導体研究所で開発体制に移されたが、それでもすぐには商品化できなかった。そんな時、岩間が挑戦プロジェクトとして受注してきたのが、全日空のジャンボ機の中に大プロジェクターに画像を映し出すことだった。開発チームは目標と期限を明確にすることができ、その実現を目指す中でCCDの開発の成功を収めた。それは同時に、80年にCCDカメラを世に出すことにも繋がった。
さて、CCDは軍事用でも重要な部品であった。ミサイルの先に装着され、攻撃目標を拐えつつ、自らを導いていくためには欠かせない存在だからである。ソニーで半導体研究を導いていた菊地は、製品発表前の1980年に、シュルンベルジュに買収されたフェアチャイルドを訪れた。フェアチャイルドではCCDカメラを使った戦闘機操縦のシミュレーターを開発していたが、白黒の貧弱な画面には白と黒の筋が何本も入っていた。スタッキング・フォールトは解決されていなかったのだ 。
軍事用に開発されたものは一般的に性能が高い。それは、民間より一段と高レベルの規格を提示した、いわゆるミル規格に合致した製品だけが受納され、また、そのための品質管理の手段を用いていたからである。たとえば、ミサイルの推進材料、つまり火薬メーカーのターレンは、暴発しない信頼性を統計的に管理できるよう全品をトレースできるよう単品管理していた。しかし、信頼性を上げるだけならば、冗長性を設計に織り込み、同じ部品を2個つけて、不具合が起ったときには別のものが作動するという逃げも出来た。軍事用では技術開発に甘えも出る要素があった。これに対し民生用ビデオカメラなどでCCDが使用される場合、大量生産する。そこで品質が悪ければコストが合わないので、たとえ厳しい品質につかうミル規格は適用されず、また全品管理ではなく、ロット管理であったとしても、高品質を目指す強いインセンティブがあった。方法的にも大数の法則で管理し易いチップとして生産されるので、米国が国防省の予算を使って開発したミサイル用CCDよりも高性能のものが廉価できるようになったのである。この強みはビデオカメラ、ディジタル・スティルカメラに利用されることによって強化され、日本企業が事実上独占していた。
ここで取り上げたCCDの例は二つのプロジェクトの間で時間的な差が少ないことから軍事からの需要特定化と民間からの需要特定化の差異を示している例だということもできよう。そして軍需CCDの失敗は極端なケースではない。自分の任期中に失敗を失敗と認めたくない国防省の官僚が、プロジェクトがうまくいっているように見せるために、コスト超過を隠そうとしたのである。そして、コスト超過を巧妙に隠すために、設計変更と「安全性の改善」のため、弾頭とロケットの結合部分の変更については「信頼性の改善」のためといった具合に正当化するようなことまでが行われた。確かにハイテク兵器はエレクトロニクスを取り入れることにより、その性能は向上し、命中精度なども飛躍的な向上を遂げた。だが、民間のハイテク製品と決定的に異なるのは、ハイテク兵器は性能は向上したが、価格が上昇した点である。
この非効率の軍事研究のやり方にメスを入れ、国防総省の契約や調達方式を大きく変えたのはクリントン政権下のペリー国防長官である。技術者出身の同長官は1994年、「国防総省は将来のニーズに応えられるようにするためには、民間の最先端技術へのアクセスを増加させ、そして国防総省へ供給する企業に対しては、世界レベルにある民間企業と同じようなビジネスのやり方を採用するように促さなければならない。」と改革の方向性を示すと共にミル規格の廃止の方針を打ち出した。翌年に軍事、民間を区別しないシングルプロセス構想が打ち出された。
この構想のもと、これまでのミルスペックや規制に縛られて工場ごとにばらばらに行われてきた生産を一つのやり方に統一し、生産段階の効率性を高めようとした 。テキサス・インスツルメンツのケースでは、組立過程における品質管理、検査、測定などに関する方式を、従来、同社が行ってきた民間用の方式に統一することを、国防総省当局に申請し認可され、19にのぼるミルスペックを廃止した。
民間からのアプローチも捨てたものではない。こうした経緯を踏まえて、日本では1984~5年を中心に米国とは逆に基礎研究所設立ブームが起こった 。ところが、日本でもバブルがはじけ中央研究所の研究資金をどうファイナンスして行くかというハードルを越えるうちに、次第に事業部の資金とその要請に応えるものに変わってきた。日立の基礎研も事業部からのファイナンスという形は導入していないが、「将来の日立にとって大事になるもの」というオリエンテーション、契約型研究員を三割程度導入といった変化で生き残りをかける体制をしいた 。この意味で、日本でも「中央研究所時代の終わり」が起こった。
その後、日立では事業ドメインをおおきく社会インフラに振ったが、他の大手企業にあっても、技術主導で頭でっかちの商品を送り出し失敗を重ねる中で事業分野の見直しをしている。そうした中で研究体制も見直しを求められている。科学技術のレベルも相対的に落ちてきており、興奮を呼ぶような日本での発見も先の山中伸弥教授のiPS細胞以外にみるべきものがない。成果が出てこない中で、イノベーションにおける国と民間での役割分担もわかりづらくなっている。

世界的にロボット開発が注目される時代のDARPAの関与

 日本は、産業用ロボットでは世界をリードしてきた。たとえば、産業用ロボットでは世界シェア5割の実績を、質量とも世界トップレベルにあるとされる。確かに日本では、メーカーとしてもファナック、安川電機などを持ち、自動車、電機などでは大々的にロボットをとり入れ、ユーザーとしても最大だ。安川電機の主力製品である産業用ロボット〈MOTOMAN〉は、延べ26万台の出荷台数を誇り、この分野での世界シェアはトップだ。
では、産業ロボット以外ではどうか。日本は90年代後半にはホンダの〈アシモ〉などに代表される2速歩行ロボットやソニーの〈アイボ〉のようなペットロボットなどの研究開発が盛んに進められた歴史をもち、基礎的な技術でも強いとされる。ところが、今や介護やリハビリなどを補助する「生活支援ロボット」や、無人飛行機は空中を自律的に飛び地上を監視するロボットとなると、日本人は発想が乏しく、用途開発、市場開発型の新ロボットでは弱いとされる。
さて、ロボット技術は典型的なデュアルユースであり、先端技術の開発でのDARPAの関与はあり得る話である。自動運転など、ロボットの先端を切り開いたという点で、東大先端研の高橋智隆准教授はDARPAのグランド・アーバン・コンテストが果たした役割は小さくないと指摘する。どの程度の役割を果たしているのか、瞥見してみる価値はあろう。
しかし、軍事という用途の前に、日本人の発想を止めていたものがあったことが指摘されなくてはならない。いうまでもなく、フクシマだ。福島原発事故で注目されたことは、災害時用ロボットは日本の原発は事故を起こさないから必要がないという需要の特定化であった。つまり、スリーマイル島の原発事故直後の1979年「極限作業ロボットプロジェクト」が始動し、さらに99年東海村JCO臨界事故を受けた「原子力防災支援システムプロジェクト」が組織され、放射線測定ロボットや原子炉建屋内のドアの開閉、スイッチ操作などを行うロボットが開発された。だが、事故が起きるという想定がない以上、ロボットは必要ないという判断が下され、ロボットは電力会社に納入されることもなく、倉庫に故障したまま放置されていたのだ。
 これに対し、欧米では原発災害現場などでロボットが不可欠であるとして長年、実践的な研究が進められてきた。フクシマ原発事故が起きた時、2号機の構内に入り、約50分かけて放射線量のほか温度、湿度、酸素濃度などを測定したのも、米国のベンチャー、アイロボットが無償提供した2台の多目的ロボット〈パックボット〉だった。 DARPAの役割はベンチャーが開発したモデルを買取ることであり、アフガニスタン、イラクなど世界の紛争地域で地雷、爆弾処理などのために後続機を購入し、デュアルユースの技術としての展開を助けたである。その御蔭で、アイロボットの〈パックボット〉は、米同時多発テロでの人命救助など他の局面でも活躍し、3000台以上が売れた。
一方、スウェーデン製の〈ブロック(Brokk)〉は、遠隔操作で動く、電動・油圧駆動の自走型作業者だ。密閉空間など劣悪な環境での作業に能力を発揮し、セメント工場や鉄の溶鉱炉などで耐火物やスラグなどの撤去や建造物の解体現場など、世界で4000台が活躍している。放射性物質の撤去にも使用されている。
さて、フクシマ原発の事故に関連してロボットを論じたところで、高橋のいうDARPAのコンテストの果たす役割に戻ることにしよう。実はDARPAは、まさにフクシマを念頭に、瓦礫が積み重なる過酷な状況でも作業できることという目標設定をしたロボットの開発で、2013年末にコンテストをフロリダで開催したのだ。具体的には、災害現場を模した会場が設営され、ロボットたちは瓦礫の中を歩いたり、ホースを消火栓につないだりする八つの課題に挑戦する仕組みである。
NASAやMITなどの強豪チームを押しのけて、参加16チームのなかで、断トツで予選を通過したのが、東大発ベンチャーのシャフトの制作になる〈エス・ワン(S-One)〉である 。NASAやMITなど強豪、16チームのロボットの多くが止まったまま動かなかったり、転倒したりするなか、シャフトの二足歩行ロボット〈エス・ワン〉だけは着実に課題をこなしたが、最期のロボットによる四輪駆動車の運転では、〈エス・ワン〉は腕と足を使ってハンドルやアクセルを器用に操作し、75メートルのコースを完走した。
この〈エス・ワン〉を制作したシャフトを買収したのがグーグルだ。グーグルがシャフトに目を付けたのはそれ以前で、同社を含めロボット・ベンチャー8社を一気に買収しているが、DARPAは、コンテストをすることで一種の商談会を催したことになる。1位で予選通過したチームへの賞金は15年に開催される本戦にむけての開発費の支援ともなり、ベンチャーキャピタル的機能ともなっている。
 国賓として来日したバラク・オバマ大統領が、分刻みの忙しさ中から訪問したのが、お台場にある日本科学未来館である。そして対面したのが、本戦に向けて開発途上の青いロボット〈エス・ワン〉であり、シャフトの元東大助教の中西雄飛と浦田順一だった。大統領は、開発する二人とも会話を交わしている。若者は答えた。「東京電力福島第一原発のように人が入れない場所で、代わりに作業します」「いま魂をかけて開発しています」、と。
このことは、日本の若者が果敢にむずかしい課題に挑戦している現実を物語っている。ImPACTでなくとも、ImPACTといった大層な名前をつけたプロジェクトを持ち込まなくとも、若者は、果敢な挑戦心を発揮し、それが成功した時に喜びを味わおうとしているだ。日本人の中にもそうした挑戦者はいる。先端の研究成果なり、技術が活かされないまま終わっているのは、むしろ規制を含め、それを受け入れようとしない社会のチェックが大きいのではないだろうか。
社会的フレームワーク、規制のもたらす心理的な枠組みによって、ロボット開発を失敗した例として高橋は、パナソニックの掃除機の開発の例をあげる。〈ルンバ〉に先行され、それに追いつくこともできないというのだ。だが、そうした例として、最も適切なのは、手術支援ロボットでる〈ダヴィンチ〉ではなかろうか。アメリカのベンチャー、Intuitive Surgicalによって1990年代に開発され、2000年にFDAから臨床用機器として承認され、販売され世界中で使用されている。1~2cmの小さな創より内視鏡カメラとロボットアームを挿入し、術者は3Dモニター画面を見ながらあたかも術野に手を入れているようにロボットアームを操作して手術を行い、高度な内視鏡手術が可能になった。
〈ダヴィンチ〉には日本のロボット技術が使われているが、日本では医療事故があったらどうするか等のリスクの考慮から開発が見送られ、NEDOが「がん超早期診断・治療機器の総合研究開発プロジェクト」でオリンパス・東大¬と支援して、内視鏡手術を支援するマスタ・スレーブ型手術ロボットの開発を促したのは、従来製品¬より小型化し、多関節マニピュレータを備え障害物を避ける能力が高いという改良型としてであった。後追いテーマの設定である。
フクシマ原発の事故をうけて日本でも過酷な災害現場で作業するロボットの開発が進められている。あるいは、四輪駆動車を運転するという課題は抜け落ちていたかもしれないが、課題設定はDARPAと同じようだろう。だが、こうしたロボットを開発・製造すべく選定されたチームは、開発した大学や企業の過去の実績が採用基準で優先される。技術そのものの優劣を競わせるのではないためにシャフトのようなベンチャーは選定されないのだ。官僚が開発に失敗した時を杞憂し、ベンチャーの開発したものを優先して購入するDARPAと違って、ベンチャー企業が開発する技術を採用しようとしないのだ。
同じ課題に向かってのプロジェクトの進め方で日米では対照をなしている。DARPAの開発モデルに優れた点があるとすれば、開発課題の設定、開発ギャップの発見ではなく、開発物を買い取り、ベンチャーを支援するだけでなく、新しいモノが社会の中に受容されていくプロセスも助けるといったプロジェクト推進の方法にあるというべきだろう。

「戦い」のフロントは標準・安全規制の作り方にも

新しいモノが社会の中に受容されていくプロセスも助けるといったコンセプトでロボット開発のための新しいイノベーションの場を、スウェーデンは創出した。医療福祉用ロボットに関する研究開発企業、大学が集積し、「ロボットダーレン」〔ダーレンはバレー(谷)の意〕を名乗っているストックホルム近郊のヴェステロースを中心とした一帯が、それだ。
そこには、もともろストックホルムの王立工科大学、ウプサラ大学、ABBのロボット部門があったが、スウェーデン政府とEUが出資する、産官学による非営利組織が推進母体として設けられ、ジーメンス、ボッシュ・レックスロス、GEに加え、日本のファナック、トータマン・エレクトロニクス(安川電機のロボット子会社)など大手ロボットメーカーが勢ぞろいした一方、エーレブルー大学、エメラレン大学などアカデミックや、ベンチャー、中小企業が集まってきたのだ。推進母体は、若手研究者の表彰をするほか、ヘルスロボティックス分野のプロジェクト推進マネジャーなどを置いて医療・介護ロボットの開発を産学官連携の下で進めている。
その成果の一つが、若いころに小児麻痺を経験し食事をするにも苦労したというステン・ヘミングソンが、起業後に会長となるファクリ・カライ博士などの協力を得ながら、開発したという医療用食事支援ロボット、〈ベスティック〉だ。この食事介助用の機器の製造はベンチャーとして企業化され、病院等へ販売されていたが、さらなる発展を目指して、世界最大の臨床記録作成企業で、音声医療記録の先駆者のエム・モーダル創設者、元最高経営責任者(CEO)のV・ラマン・クマールの150万ドルの出資を受け入れ、ベステックの高度な人工知能(AI)プラットフォームに、自然言語理解アプリケーションをつけていくことで、介護・医療ロボットのラインアップを図ることになった。
この〈ベスティック〉や病院内の自動搬送ロボットなどの開発を、推進母体のロボットダーレン側でプロジェクト・マネジャーをつとめたアダム・ハグマンは、「ロボット開発に占める技術の重要性は25%で、残りの要素としての政策や、ユーザーを初め、いろいろな人々の評価などが重要な役割を果たす」と指摘している。ロボットの開発には、技術以外の要素が大切で、開発コンセプトはユーザー・ドリブンのイノベーションだというメッセージになる。
アメリカの介護ロボット〈ジラフ(Giraff)〉を開発するジラフ・テクノロジーズは、スカイプ技術を活用したホームヘルパーの遠隔操作で、実績を挙げているが、もともとはシリコンバレーで起業されたが、実証実験の環境がシリコンバレーでは整わないとして、ロボットダーレンに本社を移し、製品販売にこぎつけた。ロボットダーレンが意欲的なユーザー、社会への受容性を評価する目利き、政策との擦り合わせができる行政などがそろっているということだろう。
ロボットダーレンに劣らぬロボット開発のメッカが、南デンマークにあるオーデンセだ。認定技術サービス機関であるDTI(Danish Technology Institute)が中心になって、世界の医療・介護ロボットの動向をさぐるリサーチ・オン・リサーチをして、その情報を共有する一方、必要と思われる技術、企業の呼び込みを行うことで一大クラスターを形成するようになったのだ。ユーザー・ドリブン・イノベーションの評価方法も確立させており、開発支援や実証実験をサポートする体制はロボットダーレンに勝るとも劣らぬとされる。大和ハウスのアザラシ型ロボット、〈パロ〉も現在では世界に3000体が出ているが、ここで実証実験を行い、認知症の快癒にも役立つということからアメリカのFDAの医療認可も、そしてEUのCEマークも獲得した。オーデンセからは、介護ロボットの他にも、中小企業向けの産業用ロボット、自動車製造オートメーション用ロボット等が開発、販売されている。
アメリカでの開発は、発想が優れているとされる。介護ロボット・ベンチャーのエクソ・バイオニクスは、カルフォルニア大学(バークレー)の協力を得てリハビリスーツの〈エクソレッグ〉を、そして3Dプリンターの雄、3Dシステムズと共同で患者個人の骨格にあった歩行支援型ロボット、〈E-レッグ〉を発売している。MITが歩行支援ロボットの〈パム〉を開発していることは知られているが、医療の街、ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学では様々な介護・医療ロボットの開発プロジェクトが進んでいる。
グーグルの自動運転も、トヨタ車を改造して自動運転を試みていた段階では自動車だが、14年に披露した自社設計の小型車両になるとロボットだといってもよい。車内にはハンドルやアクセル、ブレーキのペダルはなく、車の上に搭載したセンサーやカメラが周囲の情報を集め、人工知能を特別に備えたコンピューターがその情報を解析して自動運転する仕組みになっているからだ。つまり、搭乗者が目的地を入力し運転の「開始」ボタンを押すだけで目的地へ着き、そこで「終了」ボタンを押すことになる。20年ころに実用化を目指すという。自動運転は高速道路なら簡単だ。だが、一般道になると1000倍むつかしいといわれる。先に触れた〈エス・ワン〉を制作したシャフトなどを買収したのも、この自動運転ロボットの完成へ向けてのことなのだ。
こうなれば、車も人を運ぶロボットということになり、ロボットの用途は途方もなく広がろうとしている。
こうしためざましい技術革新の一方、機器の安全基準や運用のあり方についての議論は始まったばかりで、法規制はまだ整備されていない。CCW(特定通常兵器使用禁止条約)の議長国のフランスは、14年非公式専門家会議を招集し、ロボット兵器について、その定義、国際人道法との関連などを議論、検討する場とした。つまり、無人偵察機は今のところ遠隔操作されており正確にはロボットではないが、それに人工知能をつけて警告に応じないものに爆薬を炸裂するようプログラムして自動飛行させれば、立派な武器になり、重負荷の作業をアシストする介護服は、そのまま兵士をエンパワーする戦闘服になり、先に紹介したエクソ・バイオニクスもリハビリスーツの〈エクソレッグ〉の開発ではDARPAの援助を受けている 。ロボットがデュアルユース性を持ち、ほっておけば、そこにロボット兵器時代が迫っていることは間違いないだろう。この会議をフランスが招集したことは、同国はこの会議を出発点として、何らかの規制を導入することを考えているということだろう。だが、各国の思惑は介護、医療用にまで及んではかなわないという規制忌避派から、全面禁止派まで、ばらばらのようだ。
日本の立場は、筑波大学発のベンチャー、サイバーダインが開発した介護ロボット、〈HAL(Hybrid Assistive Limb)が製品規格としての安全性基準の国際的な認知を得るために提案した、生活支援ロボットの安全性に関する国際規格、ISO13482が作成され、それに準拠して、日本品質保証機構(JQA)がロボットスーツHAL福祉用の安全性を評価し、世界で初めて認証したことを手掛かりに、生活、介護、医療といった分野でのロボット規格の設定でリードを保ちたいというものだろう。つまり、新しいISO規格は各国の安全認証制度を前提としたものになっており、たとえば、ヨーロッパではEU(EC)指令の必須安全要求事項に適合しているとの認証を受けなければならない。それによって得たCEマークキング表示のある製品だけが、EU域内の自由な販売・流通が保証されることになる。アメリカの場合も各地にある保険業者安全認証書(UL)が同じような働きをしている。ただ、新しいISO規格が生まれたことから、こうした認証機関でも、これまで必要とされた水準値や最適値の見直しなり調整ができていくと期待される。
〈HAL〉の場合、人に関わるもののとしてISO13482の他に、医療機器としての安全基準、ISO13485も取得している。それは、ロボットとしての独自の安全基準がないので抵触しないよう基準の高いものにも適合していることを表示するためで、ISO13482 が誕生したことから、ある程度ハードルを下げた状態で世界が安全を認知するという意味で生活支援型ロボットの参入障壁を低くしたことになる。他の分野でも、グーグルの自動運転車のような場合、道路交通法を初めとする周辺法規をすべてクリアーする形でロボットの居場所探しが始まり、新しいテクノロジーが社会の中に入るため基盤が一つ追加されていくことになろう。
だが社会実装されていくには、“より安全な技術”というところに向い勝ちだ。1865年にイギリスで生まれたレッドフラッグ法は、蒸気自動車を運転するものうち一人は自動車の前を歩きは周囲に危険を知らせることと定めていたために、速く走る自動車への発想をつむなど、イギリスの自動車業界をライバル国から大きく遅らせることになった。つまり、安全へ性急に走りすぎると黎明期ある技術も進歩から取り残されたり、かえって社会に受け入られなかったりする危険をはらんでいるということだ。
要は、バランスが重要だということだろう。産業ロボットでは、事実上、機械とみなしてもっぱらロボットを使う側の責任を問う考えで法、規制がつくられており、たとえば、労働安全衛生規則 第150条4では「当該産業用ロボットに接触することにより労働者に危険が生ずるおそれのあるときは、柵又は囲いを設ける等当該危険を防止するために必要な措置を講じなければならない」とある。
 政府はこの条文の解釈を見直し、ロボットユーザーがリスクアセスメントにもとづく適切な安全対策を講じた場合、あるいはロボットメーカーとユーザーが国際安全規格に準じた安全対策を施した場合は、それを安全柵と同等と解釈することとした。
 何がメリットになるのか。安全柵を設けなくともよいという意味で中小企業へのロボットの導入が進むといったことが考えられよう。
だが、重要なことは、産業ロボットをユーザーの側から考え直すという機会を与えることではないか。それは、労働不足と加工の高度化のため、2014年にはロボットの最大市場になると見られる中国に対抗していくためにも是非とも必要な視点なのだ。もし日本のロボットでの躍進が最大のユーザーをもったことに支えられていたとすれば、工作機械で起こったのと同じ道筋で、中国が急速に迫ってくることも考えられ、これへの対応だ。
中国では人件費高騰に対応して、繊維、機械、エレクトロニクスなど幅広い分野で自動化機械、ロボットの導入意欲が高まっており、国際ロボット協会による2011年末の中国のロボット設置台数は、2万2577台で、5年前から4倍増という急ピッチでふえている。人海戦術で安値受注をして入るとのイメージの強い鴻海のようなところでもロボットの導入は盛んなのだ。副主席時代の習近平が、09年に訪日した際に訪れた唯一の企業が安川電機だ。安川電機でも、ライバルのABBでも、中国企業のロボット導入意欲は強いとの見方をしている。安川は、江蘇省常州市に東京ドーム二つに相当する敷地を確保し15年には溶接ロボットを中心に年6000台の生産を開始する。
では、ユーザー主導で産業用ロボットを見直したとき、どんなことが起こり得るのか。一つのヒントが、対人協調型ロボット、〈ユニバーサルロボット〉だ。このロボットは、先に紹介したデンマークのオーデンセから誕生したベンチャー、ユニバーサルロボットによって開発された。開発コンセプトは「安全かつ軽量、使いやすい」だと、同社のエンリコ・クロー・イバーセンCEO)がいうように、どの現場でも同社のロボットと人間が同一ラインで作業をする形になっている。今までとは異なる発想で開発され、生活支援型ロボットに似ているのだ。同社は2005年に設立され、初号機の発売は08年と歴史は浅いが、今やヨーロッパでは自動車業界に強い顧客基盤を持ち、ドイツのフォルクスワーゲンではモーターの組立ラインに、BMWではドア組立の一部工程に導入されている。2012年にIERA AWARDを受賞し、その名を世界に知られるようになり、すでに世界50カ国に約200の販売代理店網がある。
自律性をもって動くロボットは、それまでのユーザー責任から製造者責任へと、その責任構造を変えると考えられている。先の労働安全衛生規則の見直しでも、「ロボットメーカーとユーザーが国際安全規格に準じた安全対策を施した場合」と断り書きを入れているように、産業用ではメーカーは製造するがユーザーもいろいろ注文をつけ、ユーザー仕様に変えており、運用も共同していることも少なくないので共同責任はなじみやすい。だが医療用では、病院や施設、個人で使うことになる一方、使用する場面も工場の作業場のように隔離されていず、一般の生活の場だ。
誰も使ったことがないモノに規制をつくっていくことに意味は乏しいが、日本はアニメの世界でロボットの夢が育まれ、将来のロボット社会を疑似体験してきた。生活の場でロボットはどう取り入れられるのか。スウェーデンがとった方法は、テレビドラマ化だったように見える。2012年から放送された『フボット(hubot)・シリーズ』は人間(human)型ロボット(robot)なので、hubotと名付けられたロボット達が生活の中に入り込んできた近未来のスウェーデンの姿を描いている。老人と生活を共にし、介護をしたり、話し相手になったり、趣味を一緒に楽しむhubotもいれば、工事現場で危険な作業をするhubot、職業安定所で失業者に適した仕事や職業訓練を紹介するhubotもいるというものだ。1クールで終わるはすであったが、2クールの放送になった。それだけ、フボットくんが、人間の日常生活の様々な場面に浸透してくる可能性があるということだ。
技術の方向、社会に必要な共通認識を検討しながら、ロボットの開発、導入がスムーズにいくためのルールづくりが始まっている。イタリアのピサ大学を中心としたEUベースで倫理・法制度を検討するロボット法プロジェクトや若手法学者が中心になって進めるアメリカのロボット法検討会などだ。
DARPAモデルやそれを一部とりいれたImPACTといった大層な名前をつけたプロジェクトに過大な期待を持つ必要性はない。だが、DARPAモデルのフレームワークが思考のなかに入ることにより、フクシマで経験したようなタブーが消え、発想が豊かになり、ロボットの社会受容性も高まることが期待できよう。こうした柔軟な思考フレームワークを最大限に活かして、軍事用途、災害・危険物対応、医療、生活支援など、様々な用途を想定しながらも、ロボットに限らず新しい技術がうまく社会実装できるような“モデル”を作っていくことが肝要だ。



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2014年04月30日

2014年5月号  TPP推進の先に見える農・林業の復活  コメ増産、バイオ発電を成長戦略の一つの柱に  - 高橋琢磨

農業、あえて言えば農林業が、日本のあるべき産業構造の中で重要な位置を占めるものでなければならない。さもなければ、自由貿易の流れが加速化する一方、新興国の経済成長が著しい中では、水産物で競り負けが起こっている。農林業を補助金づけの蔭の存在にしておいて、40%まで低下した自給率の向上を声高に叫んでも目標達成はできない。掛け声だけでは、食糧の自給率向上どころか、食糧確保すらむつかしくなりかねない。農林業を成長産業として、雇用吸収の場として構想しなければならないゆえんである。

国際潮流の中でのTPPの位置づけ

ロシアがクリミヤを併合し、ウクライナ東部でのロシア系住民煽動するという19世紀型の地政学的行動をとったことが、アメリカのオバマ大統領をして日本で尖閣が日米安保の範囲内であること、そしてフィリピンでの米軍の駐留決定へ動かしたものであることは間違いない。
アメリカは、なお中国の「平和的な台頭」を期待し、責任ある中国との間に新しい大国関係を築くという広い意味での関与政策を放棄したわけではないが、中国がロシアに倣い東アジアで19世紀型の行動をとることを十分に警戒し、アジア太平洋国家であることを示さなければならなくなったのだ。シリアでの宥和外交が同盟国の信頼を傷つけ、ロシアや中国などのアメリカ的秩序への重大な挑戦を誘発しているとすれば、その関係を修復し、力には力で対応するとの決意を明らかにし対峙の姿勢を示さなくてはならなかったのだ。
 日米首脳会談は、またTPP交渉を妥結させることが、日米の絆を築き、両国をしてアジア・太平洋国家たらしめ経済成長を高めるための重要なステップになるとの認識を深めた。衆議院選挙に勝利を収めたばかりの安倍首相は、民主党政権に代わって政権を担った自分が訪米すれば、大統領から両手をあげて歓迎されると考えた政治オンチであった。すなわち、安倍首相は、日米同盟の重要性を標榜しながら、TPPに反対を表明する自民党の日本が参加交渉に参加する意向すら表明できず、そのため日米首脳会談も延期された。しかし、自民党をTPP交渉参加へとまとめ、TPPをアベノミクス経済成長策の一つの柱とするまでにした。
だが、アベノミクスは黒田金融政策の超緩和策での効果以上のものが出ていない。持続的成長への道筋が見えない経済政策は、脆弱だ。その意味ではTPPは数少ない経済成長策の一つに浮上している。一方、シェールガス革命での国内活性化を何とか海外市場開拓と結び付けたいオバマ政権でも、TPPへの期待は大きい。日米のベクトルが合っていたのだ。そしてTPPでの合意ができれば、安全保障、経済という両輪が動き出す。
にもかかわらず、日米首脳会談では、異例の延長をしたにもかかわらず、合意に至らなかった。アメリカでは、1月に議会が超党派でいわゆるファーストトラックの権限を与える法案を用意したが通過の目処がたたず、オバマ政権は「高水準のTPP合意」をすることで議会での承認を得るという戦略をとらざるを得なかったため、交渉に柔軟性を欠いたためだとされる。
票勘定からすれば、自動車での日本の譲歩を引き出すために農業での高水準の要求を突きつけたとの解釈だ。確かに、通商代表部は日本との貿易障壁として自動車・同部品市場の閉鎖性を掲げ、司法省はいわゆるケイレツ発注を独禁法違反で次々と提訴し、ワイヤーハーネスの矢崎総業への98億円など莫大な罰金を課している。ケイレツ発注は、発注するメーカーが部品会社の創意工夫を引き出す一方、メーカーがオポチュニスティックな行動をとることを抑制し、ホールドアップ問題を解決するものとして、ノーベル経済学賞を授けられたウィリアムソンなどによって褒めそやされたものだ。日本の部品メーカーがケイレツだけに発注することで独占禁止法に違反することを恐れアメリカのメーカーなどにも受注が行き渡るよう工作したことが逆に提訴されることになったと見られる。
日米首脳会談での共同声明では、TPP交渉での妥結に向けての道筋ができたとの文言があるが、11月の中間選挙を控え、日米交渉がきわめて複雑な政治力学の罠に陥る危険は少なくない。日本は行き詰まりを見せているアベノミクスの突破を図る意味でもTPP交渉でのモメンタムを失わないよう、そしてTPP推進の先に見える農業、林業の産業化による成長戦略を打ち出す政治的決断をすべき時ではないか。
 影の主役は中国である。中国には、日本を巻き込んだ日中韓をASEAN+3の要とし、中国主導のアジアを構築したい思惑がある。そのため韓国が提唱し、日中韓の三カ国で協議をつづけているFTAで、中韓を先行させるとしたりして、日本を牽制していることは確かだ。だが、習均平政権は、日本のTPP交渉参加に警戒心をいだくところから変身し、国務院にTPP参加した場合の中国経済の姿などを検討させるようになっている。中国は、WTO加盟で世界経済との関与を深め、自らの立ち位置を変えたことで今日の繁栄へと導いた。現在の中国は中心国の罠に陥らないよう産業の高度化を図らなくてはならないが、TPP参加で同じことが実現できるのではとの期待を抱いていることの現れだ。
 日本の農業、林業を構想するには、国際潮流の中での日本を描いて、少子高齢化の先にある社会を考えなくてはならない。日本の現状では、なお食糧をアメリカからの輸入、中国からの輸入することに警戒をしながら、国内農業を保護するという枠組みで思考を巡らせているが、最早そうした思考の枠組みは機能していないのだ。
昨13年末に中国が農業・食糧政策を大きく変えたこと、意味が問われなくてはならないのだ。そして食糧輸入国へ転じた中国が、食糧輸入を食糧安保の一部と考える思考に学び、食糧輸入国へ転じた中国を前提に日本で耕作放棄された土地の意味を再考し、放擲された森林の再生を構想し、直ちに着手しなければならないのだ。

中国、インドが食糧輸入国になったことの意義

習近平は、鄧小平の南巡講話の跡を訪ねることで新政権の第一歩を踏み出した。これに対し、李克強が選んだ訪問先は地味な農業部傘下の食糧研究所であった。
なぜ農業なのか。13億6000万人の人口を自らの手で生産する「農」で賄う決意を表明するためだった。天下の安定は食にある中国の故事、「飯を食わせる」を口癖にしていた毛沢東にならう意味もあったかも知れない。だが何よりも、自分が進める農村改革、都市化政策だけでは、所得の向上した中国国民の全食糧をまかないきれないので食糧安保政策を転換しなければならないことを予告するためだったのではなかろうか。食糧の自給をめぐっては共産党の中国は大きな失敗をしただけではなく、血を血で洗う闘争を展開し、日本軍の悪行でも言っておかなければ、隠蔽もできない過去と決別するという意味合いもあったといえよう。
政治局常務委7人全員が出席した中央農村工作会議で、食料安全保障政策の転換が決められたのは、2014年初のことである。これは、党中央および国務院が1年で一番力を入れる政策テーマであり、それゆえに最初に出す政策に関する文書、中央1号文件となった。
1号文件の中味は後述するとして、改革開放政策の初期にとられた農業政策で中国が食糧の自給ができるようになったときに振り返ってみよう。1996年に、それまでは恒常的な穀物輸出国であった中国は、突如輸入国に転じた。これが世界を驚かせた。94年にアースポリシー研究所のレスター・ブラウン所長が「誰が中国を養うのか」と問題提起したことが実際に起きたという驚きとして記憶されている。
こうした警告、そして国際穀物価格の上昇を受けて、中国政府は、97年に初めて「農業白書」を出版し、全食糧で自給率を95%以上に保つことを目標にかかげ、農業に注力した。その結果、中国国内の食糧事情は好転した一方、山林の乱開発によって98年には揚子江で大洪水が起こり、そして食料価格の低落などが起こったため、中国は山あいにある急こう配の農地を森林や草地に戻す政策をとってきて、日本の面積の四分の一に相当する耕地を森林に戻してきた。いわゆる「退耕環林」である。この結果、中国は森林化の優等生として登場した。
しかし、工場や住宅地への転換が予想以上のペースであったこと、07年には最近の穀物需給が逼迫したことを重く見て、中国は前年の06年度に始まったばかりの農業政策を打ち切り、「退耕環林」を「開墾促進」へと大転換した。一時は、過剰生産になり、休耕を環境問題と結び付けてきたが、再び自国が輸入国に回るという事態を避けるため、環境保全よりも食糧安全保障に軸足を移したのである。
増産、そして減産、あわてての増産、96年から02年は、過剰反応の連続だった。だが、中国の食糧事情のトレンドは、国内の食糧生産は10年連続の増産が続いているが、消費の伸びはそれを上回っていることにあるのだ。すなわち2003年から12年までの10年間で生産が年率3.3%増であったのに対し、消費は年率4%近い伸びをしている。このため中国は、小麦、トウモロコシ、米、大豆といった食糧の輸入が急増、03年には99.9%であった自給率が04年に93.9%へと下がり、12年には87.7%と、政府目標の95%を大きく割り込むようになった。所得の伸びによる急速な食事の変化に加え、都市化が急速に進み、土地を手放した農民が都市で食糧の消費者になったことの変化が加わった。このため、一時は過剰生産になったものが、消費の伸びの高かった分、不足となり、それが輸入になっていると見られる。
2013年の年間食糧生産は6億193万5000トンで、これは2004年以来最高の生産量であるが、豊作にも関わらず12年で6200万トンと世界最大になった4大品目の食糧輸入は続いている。2013/14年度の小麦の輸入予定量は従来の予定750万トンから800万トンに上方修正し、1995年以来の最高水準となった。2013/14年度のトウモロコシ輸入は700万トンで、これは前年より400万トン増になったと見込まれ、コメも12年から輸入国になっている。それでも小麦、トウモロコシ、米の主要三品目に限れば、自給率は97~99%と高いが、自給率が20%に満たない大豆を入れると87.9%と、90%を割込む。
中国は2000年時点では54億ドルの黒字を出す食糧輸出国だった。その地位は07年まで維持されていたが、08年に一挙に116億ドルの赤字を出した。08年というのは、餃子問題もあり日本の輸入が激減した年でもあったが、それでも08年の中国からの食糧輸入額は5500億円と全体の9.3%を占めていたのだ。そして食糧貿易での赤字は12年には311億ドルとなり、4年間で3倍近い増加になった。08年に2,981億ドルを記録した貿易黒字がいつまでも維持できるわけではない。急ピッチでの食糧の輸入は中国でも負担になることは間違いない。そして、中国の13年度の食糧輸入量の2200万トンがオーストラリアの年間小麦生産量に匹敵すると比較すれば、そのインパクトの大きさが想像できよう。
ところが、不動産の土地供給のために耕地の減少が続いている。政府は耕地面積の最低ラインとして18億ムー(1ムーは約6.7アール)を死守するとするが、都市化が進む中で18億ムー割れは時間の問題だ。増産の背景は肥料の投下による単収の伸びだが、肥料の効果が限界に近づいている一方、大気汚染の進行で日照時間不足による減収の兆しが出てきている。
一方、一人当たりGDPが低いにもかかわらず中国人の食肉の消費は、90年代に日本を08年に韓国を抜いている。ことに多いのは豚肉の消費量だ。世界全体では13年の消費量は1億700万トンだったが、このうちの約半分が中国人の胃袋によるものだった。中国ではこうした食習慣の変化に応えるためにより多くの家畜を養わなければならず、大豆などの輸入量が急増している。代表的な飼料用食糧とされるトウモロコシの輸入でも、あと5年もすれば中国が世界最大になると予想されている。
中国の食糧生産コストが上昇し、価格的に米ではベトナムやパキスタンからの輸入品に対して10%程度、小麦ではアメリカ産にくらべ数%高いとされる。人民元の上昇、労働コストの上昇で価格競争力が低下しているのだ。だが、価格だけなら関税の引上げや補助金で対応すればよい。問題は、土地不足であり、農村労働力不足でもない。水資源が不足していることなのだ。中国では水不足が顕在化し、たとえば黄河が1990年代から毎年のように、一時的に下流が干上がるなどしている。いわゆる断流である。1997年には河口から600kmに及ぶ断流が起きた日は262日に達した。原因として上流から中流で河川の水量の90%という過剰取水と考えられた。その後取水制限などにより、1999年以降断流は発生していない。一方、地下水利用の機械化が進み、大量の地下水が農業用水として利用されるようになった。結果、中国の華北では35年間に地下水位が50メートル低下するなど、水不足は深刻化している。再び、レスター・ブラウンの警鐘が高らかに鳴らされなくてはならない状況なのだ。
では、水が足りなければどうするのか。食糧、エネルギーの形で輸入する以外にない。
小麦1キロを作るには水が1トン、米1キロを作るには水が2トン、牛肉1キロには水20トン程度が必要となる。これがバーチャルウォーター(仮想水)の考え方だ。現在アメリカ人は一人当り年間1600トン使用し、アメリカ合衆国は世界最大の水使用国でもあるが、農産物の輸出に伴って仮想水として国外に放出している分は、国内の年間総使用水量の15分の1にあたる。米の主要輸出国であるタイにおいては、4分の1に達する。水不足の中国が仮想水を求めた地が東南アジアということになる。カンボジア、ラオス等が、中国の植民地化していることは知られているが、それでも足りなくなる恐れもあり、貿易赤字の負担も大きくなる。
さて2014年の中央1号文件となったとされる食糧安保の政策はどう変わったのか。96年に定められた目標は全食糧での自給率を95%に保つことであったが、それが不可能であるとの判断から、①主食穀物をコメ、小麦と定め、これに関しては100%を自給するという目標を維持するが、トウモロコシや大豆などは基礎穀物と位置づけるものの、その自給率を明示しないものとした、②それ以外の食糧では、たとえば油糧穀物では輸入を食糧供給の基本的な一部とするというものだ。
これを要すれば、コメと小麦に関しては責任をもつが所得が上昇し食物連鎖の上層に位置する食糧を需要するのは消費者の自己責任だということを宣言したことになろう。先の
ブラウン所長の言を借りれば、中国は今後ますます食糧輸入に頼らなければならず、
日本やメキシコなどその他の食糧輸入国と競合することになる。これが世界の食糧価格のさらなる上昇を招くことになるだろう。インドも42億ドルの純輸入国であり、BRICsなど新興国では人口増加と所得の上昇による食生活の変化によって、食糧が自給できなくなっているのである。

世界的な食糧危機、水不足、CO2削減圧力が日本の農林産業を蘇らせる

日本の農業は非農業部門、つまり工業部門の高度成長を前提としたパリティ政策を基本とし、結果として耕作放棄を旨とする政策を展開してきた。このため耕作面積は1990年の524万ヘクタールが08年には463万ヘクタールに減少する一方、耕作放棄面積が40万ヘクタールに達している。ことに減反の主対象である稲作では、1970年代には317万ヘクタール作付けされていたものが、現在では半分の150万ヘクタールになっている。
確かに自民党は減反政策の見直しに言及している。だが減反政策はただちに放棄されるべきだ。食糧安保、自給率向上という目標に反するだけでなく、食糧不足になる恐れをいだく国民が13億6000万人いるという国を隣国に持つ中で、まったくそぐわない政策だからだ。そもそも農業にインセンティブを与えるものではない。農家の就業意欲、販売意欲を失わせるだけである。減反政策の下では、三井化学が収穫量が5割増える種を開発しても白い目で見るだけだ。少子高齢化が進む日本では、新技術を採用しなければ経済成長はあり得ないが農業がその例外であっていいわけがない。
減反政策が長らく農業政策の柱となり得たのは、他部門での成長の成果を分配に預かるという構図があったからに外ならない。今や不必要のみならず、世界的には食糧不足が懸念される中、税金を用いて整備した農業基盤が利用されないという矛盾したことを平気でやっているのだ。日本は今やコメの減反政策を放棄し、優良な水田の完全利用をめざすべきときである。一定規模以上の主業農家に耕作面積に応じた直接支払いを交付し、地代支払能力を補強すれば、農地は主業農家に集まり、コストは大きく下がる。
一方、穀物価格は、先に引用したブラウン所長の言にみるように、上昇傾向にならざるを得ない。国内の需給均衡価格が国際価格を下まわるようになれば、コメを輸出することが可能になろう。日本が農業ビッグバンを宣言し、食糧生産のインセンティブ体系を整えるべき時期がきた。そして田畑が復活し、農村が活性化すれば、ことに水田を基礎とする農業は多面的機能をもっており、国土保全、国土強靭化にも資することにもなる。これらは次に述べる河川と森林ともリンクするところも多いからである。

総合治水政策と里山産業の創出

休耕田と同じように、日本には眠ったままの豊富な森林資源が放置されたままになっている。森林面積は2500万ヘクタールにのぼり、森林蓄積量(森林面積と樹木成長度合いをかけあわせたもの)も44億立方メートルに達する。
過去40年で2倍以上に増えたのは、いわゆる外材に押されて伐採が進まなかったためだ。現状では、木材自給率は約22.6%に留まっており、北米、アジア、ロシア等からの輸入材が多くを占めているが、中国の需要の急増、ロシアの高率関税によって価格が高騰しており国産材にも採算のとれる林業の期待が高まっている。
ただ、これまで林業が動いていなかったため、原木の切出のための林道の設置などが行われてこなかったため、皆伐方式での林業の担い手がいない。そこで、100年サイクルの長期間伐方式をとり、間伐で利益があがるような林業が目指されるべきことになる。活性化のビジネスモデルとなるのは、間伐材の木材利用で経営を成り立たせている京都府の日吉町森林組合や岡山県の真庭市の銘建工業・真庭森林組合といったところになろう。前者は不在地主に働きかけて規模の経営を追求しているからであり、後者は間伐材でのバイオマス発電で成功しているからだ。
しかしながら、林業の危機は農業以上に高齢化が進み、従事者は5万人にとどまっていることだ。つまり、放置されている森林資源は膨大であり、担い手としても、森林組合の活性化も必要だが、それだけでは成長政策として不十分である。
膨大な森林資源を自然保護である森林育成と林業とを今少し区分して考える必要がある。京都議定書では、1990年以降の排出削減分に、日本の場合は 1300万トン(炭素)まで森林の吸収源をカウントしてよいことになっているが、これは、約束事のフィクションの数字である。では実際にどのくらいの吸収量があるかについて、国内では林野庁を中心に算出が試みられ、森林が1年間に蓄える二酸化炭素の量は約8,300万トン(平成18年度)程度、炭素単独では2590万トンと推定している。
国立地球環境研究所の伊藤昭彦研究員らは日本国内を1kmの格子に分割し詳細なモデル計算を行って2000~2005年の平均的な吸収量の分布を示した。国内の全森林(約25万平方キロ)における吸収量は林野庁の値よりもやや大きい、約3250万トン(炭素)と推定されているが、北から南にかけて吸収が大きくなっている。これは気候条件の変化に伴って森林タイプが亜寒帯常緑針葉樹林、落葉広葉樹林、暖温帯常緑針葉樹林、常緑広葉樹林と変化していることに対応している。
一方、間伐した樹木は、そのままではやがて腐朽して二酸化炭素として大気中に放出されるので、単に間伐するだけではなく、間伐材として利用する必要がある。京都議定書では育成林では適正に手入れされている森林の吸収量だけが削減目標の達成に利用できるとされていれるが、現状では、十分な面積の森林を手入れすることができていないため認められた森林吸収量の1,300万炭素トン(年平均)に対し、110万炭素ト ン程度が不足すると推定されている。その不足分は海外の排出権購入でまかなわなければならないわけで、日本は山林の管理を怠ることで大きな機会コストを発生させていることになる。
間伐材の利用で国産木材の利用拡大も重要であるが、たとえば30年前の1980年に1立方メートル、4万円した杉丸太が今では1万円に落ち込んでいる。平地であれば5000円以下で切り出せるが、急斜面で林道がないような状況で切り出すにはとても1万円では無理だ。トラックや作業機械を自由に操作できる林道を建設することも重要だが、とりあえず木が痛んでも加工が可能なバイオマス燃料での利用を促進すべきであろう。つまり、広葉樹林を核とした森林が経済的に管理できるためには、間伐材を利用したバイオマス発電がオンサイトでできる小型バイオマス発電の機器が開発される必要がある。
さて、前述の真庭市で銘建工業が中心になって進めている真庭バイオマス発電では、出力1万キロワットと、1万8,000世帯の電力をまかなえる規模のものが商業的に稼働できている。15人の発電所要員と間伐材の切り出しに100人の雇用を生み出すとされる。ここでのバイオ発電をデフォルトスタンダードとして他の中山間部にもっていき採算をとれる事業にすれば、雇用機会創出も前倒しになろう。しかる後に、合成木材の技術革新も進んでいるので、間伐材を木材として利用する出口を考え、多少時間がかかるが木材を搬出する作業道の整備などに集中投資して行くべきだろう。
間伐材を切り出し、森林の管理をする人たちの事業は、どう進めていくのか。間伐など山林の手入れをしていない所有者に対して、あり得べき温暖化ガス排出の受け皿になっていないという趣旨から炭素税を重課税することにする。つまり、日本の森林は3分の2が民間に保有されているが森林の持ち主も手入れをしてこなかった機会コストを負担させるという意味で重税を課すのである。山林の政府への寄付を募るなどによって対象山林を事実上国有化し、それを新規の雇用、新規の参入の受け皿にするのである。一方、政府も森林の管理を怠ってきて、地籍調査が行われている面積は半分以下の48%にとどまっている。つまり山林は第二次大戦後に行われた農地解放の対象にならなかったこともあり、その後、海外からの木材輸入が増えたこともあって管理が放棄されてきたのである。山林の台帳が整備されていないなかでは、日本国内を1kmの格子に分割した地球環境研究所のモデルで代替できるのではないか。一旦国のものとするのは、やがて大きな河川の流域ごとに設置される河川流域委員会(仮称)に寄託するものへと転換するためである。
また、戦後の農地解放のとき対象にならなかった山林の所有に関して明治政府以来の過剰な私的所有権を認める必要はないと考えられる。明治政府は財政基盤が弱かったために地租に依存しなければならなかったために、国際的にも例をみない土地の所有権を認めた。このために戦後の農地解放が行われて土地が細分化されても、その権利が保護され続け、戦後の乱開発をもたらしたとも言える。市民運動のようなものも、その権利を利用して一坪運動が起こされるなど歪んだ形で行われ、「公」もゆがめられ、遠ざけられてきた。現在、外国投資家と思われる主体が、森林としての価値の少ない山林の買い占めをし始めているのも、日本の強い土地所有権に注目して、地下の水資源を確保するものだとされる。それには、水基本法のようなもので対向する手段を確保すると同時に,森林資源に関しても、[公]という見方をしてもおかしくはない。
河川流域委員会(仮称)に寄託された国土は、国土強靭化として海岸線で防波堤を高くするなどの施策がとられているのと同じように、河川の上流域などの強靭化の対象となる。なぜなら、最近の台風の被害などでも広葉樹林を切り倒して針葉樹林を植えたところでは、根っこの深さが違うから深かった広葉樹林の根っこ部分での土砂崩れが起きやすく、被害が大きくなっているからだ。鈴木雅一教授によれば、かつては禿山で洪水が、その後人工樹林が若木であった時代には表層崩壊だったが、人工林が生育してきた現在にあっては根も深くなっているので深層崩壊となって被害も大きくなっていることになる。そこで人工林の手入れや保水能力の高い広葉樹林を上流域につくることで、治水、治山の実績の向上が期待できることになる。また森を復活させると北の鮭を初め、その河川で特有の魚介類も蘇ってくる。広葉樹を植えること、間伐を行って広葉樹林を維持すること、これが新しい、というより本来の治水工事だといえよう。
こうした提言には、反発もあるだろう。だがそれは、アベノミクスが少子高齢化による人口減という危機に対応するものであるにもかかわらず、超緩和策がとられているためにニュージーランドの人々が抱いたような危機感の共有ができていないという問題点をかかえているからである。しかし、持続的な成長への道筋がつけられなければ、日本はヘッジファンドから売り浴びせられるリスクがきわめて高いのだ。工業部門の高度成長を前提としたパリティ政策を放擲し、農業林業の自立を促す政策を追求することは、持続的成長へのコミットメントを示し、ヘッジファンドの売り圧力を跳ね返すことになろう。水素資源へのエネルギー転換などと組み合わせればなお強いメッセージになろう。今は敗戦後のような危機感、そして新時代としての地球温暖化への共感のようなものを必要とするときなのである。
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2014年03月30日

2014年4月号  高等教育に投資を - 高橋琢磨

要旨:日本は明治以前から教育立国を標榜してきた伝統がある。ところが、グローバル競争時代の現代、日本は質量ともに先進国の中で劣後しているだけでなく、新興国にも追い抜かれようとしている。資源配分が老人へ偏り、若者への投資がなかったのだ。高等教育に投資をしなければ国がなりたたない。痛みを伴う改革を経て初めて教育への投資が好回転するのではなかろうか。

キーワード:大学改革、秋入学、MOOCs,UCバークレーの改革、フンボルト・モデル、カリキュラムのチューニング

1.オリンピックに名乗りをあげた日本の大学

このところ新聞に旧国立大の全面広告が目立つ。先日、東京工業大学教育改革国際シンポジウムを聴く機会があり、これを機に高等教育のあり方を考えてみたい。
東工大は、日本を代表する理工系を中心とした総合大学の一つである。大学の形態としては、医学部を持たず、理工系総合大学という点でも、アメリカのMIT 、UCバークレーと似ている。そこでMIT、UCバークレーから来日した学事・研究担当の副学長がそれぞれのアンダーグラジュエートを中心に教育の現状と課題を報告した後に、三島良直学長が、2030年にMIT 、UCバークレー並みの世界トップ10入りを目指すための大学改革に着手したという報告をした。いうまでもなく安倍教育改革の中で世界トップ100大学に10大学をランクインさせたいという目標に沿ったものであり、その目標に向かって秋入学へ転換するという有力大学の共同歩調が崩れた後に打ち出された個々の大学の施策でもある。
15年がかりで世界のトップ10入りをするには、教授が教えられることだけを教えるという現状を2016年度から学習のステップを踏んだカリキュラムとして組み、カリキュラムの質がMIT 、UCバークレー並に保たれるようにし、単位の交換が可能にすることを目指すことが差し当たっての課題になる。大学院では英語の講義だけで十分なコースが用意できるが、学部では必ずしも、そうできない。そこで学期は、完全なクオーター制ではなく、二つのセメスターを二つの7週に分け、コースにフレキシビリティを持たせる一方、7、8、9月からアメリカの大学の夏学期に相当するクオーターを切り出し、ここで英語の授業を行い、アメリカの大学等から東工大への短期留学の受け入れ窓口にする一方、この間を東工大生の短期海外留学の窓にしようとしている。
コメンテーターの北城恪太郎IBM相談役は、三島学長の発表を、国体に出たことしかない日本の大学がオリンピックに出たいという具合に聞いたとコメントした。MIT 、UCバークレーの学生は、世界を変えたいという希望をもって大学へやってきて、彼らにリーダーシップを取れるように工夫して教育している。それに対し、日本の学生は海外へ出て戦うんだよとモチベートしてやるところから始まり、彼らの留学をプッシュし、サポートしてやる。とても小手先の改革では太刀打ちできない。MIT やUCバークレーでは、膨大な基金なり、寄付で大学が運営されている、それを国にお金をくださいということでメダルが取れるようになれるのか。

裾野も狭く、頂点も低い現状

北城氏の日本の大学も「オリンピックを戦え」という問題提起は、グローバル化、ICT革命が進展する一方、少子高齢化で活力を失い、高等教育、大学制度でも地位の低下が起こっている日本をどう再建していくかという視点を示したのではないだろうか。
日本の高等教育は、その経済、人口規模からするとあるべき姿からほど遠い情況にある。オリンピックを戦うためには、裾野を広げなくてはと、いわれる。まず、その普及状況を大学進学率で見ると56%で、OECD平均の62%を下回り、オーストラリアの94%はもとより、アメリカの70%、スウェーデンの68%などと比較しても低い。海外に送り出す留学生の数も、2005年の6万2853人から年々減少し、11年は3万8535人と、全学生の1.0%にとどまり、アメリカを除くOECD33か国の中でメキシコと並んで最下位だった。人口に膾炙される学生の内向き姿勢が数字にも表れているといえよう。
では、オリンピックを盛り上げるスターはいるのか。残念ながら、日本の大学の評価は、必ずしも高くない。イギリスの大学教育雑誌、Times Higher Educationが行っている世界大学ランキングでは、トップのカルフォルニア工科大学をはじめ、トップ10大学はすべて英語圏、さらには米英で、先に東工大が目標にあげたMITとUCバークレーも5,9位にランクされている。しかもロンドン周辺から3大学、カルフォルニア州から3大学、ボストン地区から2大学と、優良大学はクラスターをなしている。
英語をベースにした評価にかたよりがある、選定にバイアスがあるといった批判もないわけではない。だが、トップクラスのジャーナルは英語で出版されており、それらを主宰する大学には世界のトップクラスの学生、研究者が目指す大学でもある。表には、ある程度の妥当性があるとして、次にみるように、安倍首相も日本の大学にもそのランキング入りを目指せというのであろう。2012-13年におけるランキングでトップ100大学に入るのは、東京大学が27位に、京都大学が54位に入るのみで、東工大も、三島学長も当面のライバルとする東北大、大阪大も100番台にランクされている。トップ10大学は、カルフォルニア大学(バークレー)を除きすべてが私立大学だ。日本の場合、私立の慶応、早稲田になると300番台で、国公立では名古屋大、首都大、東京医科歯科大あたりが200番台ということになる。

2. なぜ低下したのか

東工大の大学改革案を、国体に出たことしかない日本の大学がオリンピックに出たいという具合に聞いたという北城氏のコメントが示唆するように、日本は内向きになり、冷戦後のグローバルな世界での日本の立ち位置に目を配ってこなかった。その間の低下が激しい。なぜ地位低下が起こったのか、今一度立ち返ってその背景を見てみよう。

入試と学生の質、やる気の問題:

日本の大学教育の劣化は、研究し教育をする側の質の低下だけにとどまらない。つまり、学生の学習意欲の低下も著しいとの見方だ。大学に入ることが目的化し、大学が受験勉強後の疲れをいやすレジャーランド化しているというのだ。1週間の学習時間が6時間に満たない学生が半数を超える状況で、海外留学への熱意が乏しいのも当然だと見る人も少なくない。
これには、知識偏重の入試のあり方も問題だとの指摘が多い。キャッチアップメンタリティそのものの知のあり方を踏襲して、透明性、公平性が確保されているとして平然としているからだ。学習塾の受験対策の勉学の仕方も整然としてきて、一種制度化している。
大学の分野別質保証に関する問題を検討した学術会議の委員会が答申の形で指摘した、大学を巣立っていく学生たちが担い、そして新たにつくりあげていくものとしての社会への接続性を十分に考慮した教育がなされていなかったことが問題だったとの見方もできる。教育内容が社会の必要とするものに合致していなかった。先に見た、教えられるものを教えてきた弊害だ。逆に言えば、情報エレクトロニクス産業に端的に現れた日本企業の雇用創出力の低下を日本の高等教育のレベル低下の原因の一つに挙げることが許されよう。つまり、学生の理系ばなれは、日本の経済運営者、日本企業の経営者の責任でもあるとの見方だ。
就職試験の早期化の問題も、経営者の怠慢が求人と求職の力関係を崩していることの反映でしかないとの指摘になる。日本の「失われた20年」が、日本の経済力、国力の低下だけではなく、学生たちに、それを目指して学習したいとの意欲を低下させ、修学機会を失わせていると言えなくもない。つまり、長く続いた就職氷河期に加え、20-40歳台の所得も低下しており、大学で学び社会に出るという行為を経済システムとしてみても、それが十分にペイするだけの効果を生んでいなかったということでもある。
だが、同時に、国立大学の独立法人化はあったものの、少子化のみならず、国家財政事情の悪化、教育の質保証の問題など、多くの課題にどう取り組むのか、大学改革が進んでいなかったことも事実だ。2000年に大学審議会が「グローバル化人材の在り方について」を答申して10年余を経るが、その間は前の10年と合わせ、武藤敏郎大和総研理事長の言うところの「大学の失われた20年」ではないかとの見方につながる。

若者に投資をしてこなかった日本

だが、「大学の失われた20年」というのは、まさに武藤が前職、つまり国家予算での配分を誤ったことが最大の原因ともいえる。なぜなら教育への公的支出の対GDP比で見て日本は3.6%と、OECDで比較可能な30か国の中で4年連続最下位に甘んじているのが現状だからだ。北欧諸国はデンマークの7.5%を筆頭に公的支出の比率も高いが、経済成長率も高い。すなわち、北欧諸国でも、公財政支出により教育機会を増やしアメリカ並みの大学進学率を確保し産業人のレベルを高める一方、セーフティネットを用意した上で雇用の流動化を進めた。いずれも、大学から産業界への橋渡しが高度化しているから流動化も可能になり、産業の高度化も可能になっているのだ。
日本の財政は、国債費がGDP比10.9%になっており、これで29.1兆円と、1990年度には11.6兆円に収まっていた社会保障費をまかなっている。老人を保護するのはよいとしても、若者へと投資である教育費を削っていては国が成り立たない。一票格差が是正されず違憲状態にあるために、明らかに農民の主張が国政を預かる者の目に大きく映っているのと同様に、老人の利益が保護され過ぎているのだ。
予算の制約がある中で、明らかに介護が手厚すぎ、人材がグローバル化時代に対応できる体制にまで訓練を受けていないのだ。北欧諸国並みの産業の高度化を図るには、人材の流動化を図る以前にカネをかけてグローバル化人材の育成を進める必要があるのではなかろうか。

3.大きな予算制約の中で強いられるグローバル競争

安倍首相は、13年5月の教育再生会議の提言を受ける形で、経済成長に資する施策としての教育改革を提唱し、向う10年間で大学世界ランキング100位以内に日本から10大学がランクインすることを具体的目標に掲げ、2011年に世界の留学生の3.5%を受け入れた海外からの留学生を倍増させることを目標に、留学生の勧誘をも兼ねた海外拠点づくりをすべきだとした。先の東工大の改革案はこの目標に沿った案だということになる。
では、北城氏がいう政府におカネをちょうだいといって叶えられるのか。かつて財政健全化の掛け声の下、これ以上に大学予算が大幅削減されるようなことがあれば、人材教育を担うべき大学システムが崩壊すると警告をならしたのは、浜田純一東大学長であるある。下村博文文部科学大臣も教育の投資効果を認識し、教育予算をOECD平均の5.4%までは持っていく必要があると発言している。
だが、下村発言は現行の文科省予算をほぼ倍増することを意味するが、14年度予算でもその匂いすらない。それどころか、原発停止とアベノミクスによる円安誘導によって引き起こされた経常収支の赤字、政府債務の積上げによって、「日本売り」を引き起こす危機が増幅されてきている。下村発言を担保できる政治環境は醸成されてきていない。つまり、一筋縄では行かない課題であって、教育・研究予算への配分が引き上げられるのは、選挙制度の改革、政治・経済構造の改革があって初めて可能なことだろう。

激しい新興国の追い上げ

では、時期を待つのか。本物のオリンピックでは、スポーツということもあって、新興国には強豪国が多い。学問のオリンピックでも新興国の実力は無視できるような存在ではなくなってきている。以下、その間の事情を見ていこう。
経済でも、グローバル化の進展によって途上国の追い上げが激しく、多くの産業が途上国へと移転していっている。しかも、設計思想でのモジュール化の進展によって、本来、先進国に残るはずのハイテク部門までが途上国へと移転している。中国は、こうしたモジュール化の最大の恩典を受けた国だ。インドはしばらく前まで戦略的に物質特許ではなく製法特許制度をとって医薬品などではリバースエンジニアによって医薬品を世界一低コストで生産できるようになっており、アメリカはインドのジェネリックを「意図的に」ブロックしなければならないほどだ。
先進国には途上国にはできない、新しい産業なり、途上国の企業が手掛け得ない特色のある財・サービスを提供しなくてはならないようになっている。だが、それがスムーズにはいっていないのだ。つまり、先進国には技術創発が求められているが、新興国のキャッチアップのスピードに追いぬかれているのが現状なのだ。『教育白書』では、先進国の経済成長と大学進学率の関係を見ると、進学率の高い国ほど高い経済成長をする傾向が見られるといっているが、もう少し幅広くデータをとったダニエル・コーエンたちの論文を見ても就学年数が上がることで新興国の経済成長率が高まっている。それだけ技術吸収能力が高まっており、それがキャッチアップスピードを速くしているのだ
では、研究のレベルでは、先進国は安泰かというと、これでも新興国の追い上げは急なのだ。たとえば、中国である。いわゆる一流ジャーナルに掲載される科学論文数でみると、日本は2013年を待つことなく中国に凌駕された。2013年を待つことなくと断った意味は、10年前に筆者はストックホルム財団が主催するシンポジウムで、中国が日本を凌駕するという予測をしたところ、欧米中の出席者からそれはあり得ないと反対されたことがあるからだ。
筆者の論点は、科学予算の増加ペース、留学後海外に滞在していた研究者の呼び戻し等々、ならべたものの、ほとんどクオリティ論文の数だけの数値評価に徹するとしていた同国の科学者評価システムが効果をもたらすと見たことにあった。結果は、筆者が指標としてあげた一流誌に掲載される論文数では、2009-11年の平均で日本が7万6149篇であるのに対し、中国13万8457篇、引用回数の多い、つまりインパクトのあるとみなされる論文数でも日本の671篇に対し中国1148篇である。筆者があり得ないだろうとしたインパクトのある論文の比率でも、日本は中国に抜かれてしまった。
確かに中国の論文は「力わざ」で達成されたものであり、中国科学院の穆荣平・科学技術政策・管理科学研究所長も認めているように、政治改革ができないなかでは、イノベーションへとスムーズにつながっていないし、ノーベル賞クラスになればまだ日本の地位は中国を凌駕しているといえよう。だが、先進国の知識・ノウハウを身につけた研究者が帰国後も豊富な研究資金を梃子に海外の研究者と共同研究することで、人材の大交流が起き、研究レベルが向上してきている。日本の科学は、世界最速のスパコン「天河2」で中国に負けただけにとどまらず、かなり広範な分野で、量でも、質でも中国に追いつかれていることは認めなくてはならないだろう。
大学のランキングでも、東大と京大の間には伸びしろの大きいアジアのライバル校が並ぶ。中国の北京大学、清華大学、韓国のソール大学、植民地大学の伝統をもつ香港大学、シンガポール大学等々だ。つまり、現代の中国は外国のコースをそのまま、つまり英語で教授ごと移植したり、採用する教授を一流ジャーナル掲載での論文での評価に絞るなどの改革を通じて日本の大学レベルを超える勢いなのだ。シンガポール大学、香港大学も中国語、英語のバイリンガルの教授を世界中から呼び戻すための競争を経て、今では英語人材での戦略的な構築をしてランクを上げている。ことにシンガポール大学はエール大学との共同で、東洋と西洋の比較、超克をめざしてアジア新時代のリーダー育成をめざすリベラルアーツ教育を始める。
こうした動きに飽き足らす、香港科技大学のように、理系と経営学を核にして、すべて英語の講義とするなど国際化戦略の成功でアジアのライジングスターの一角にのしあがってきたところもある。イタリアのボッコーニ大学、アメリカの南カルフォルニア大学と組み、3か処での勉学体験をするMBAコースは売りの一つだ。韓国でも事大主義でソール大学の改革が進まない恐れをいだき、世界トップのCaltecを模して浦項工科大学校がもうけられ、中国では効率的な詰め込み教育でのキャッチアップ後を見据えて南方科技大学が創立されている。科学・教育の分野でもグローバル競争は文字通りグローバルになってきており、大学改革でもアジアに先行されているのだ。

4.痛みを伴う改革があって初めて生まれる好回転

衰退している国を盛り返すにあたって教育のあり方を見直すことは必要だ。安部首相は、前内閣時に、教育基本法の改正をしている。戦後の行き過ぎた、あるいは歪められた平等教育を見直そうという理念だったと解釈される。つまり、追いつけ追い越せの時代には底上げに教育の国家の基本があったが、工業化時代から創知情報化時代への変化、グローバル化の進展の中で、グローバルリーダーの出現が重要になったという認識から頂点引上げ教育を目指すになったとの意味であろう。ところが、今時内閣では、そうした環境、時代認識の変化以上に、近隣の中国や韓国の台頭に刺激をされ、愛国心が教育されていない、歴史教育に偏りがあるといったフレーズで、教育基本法の改正をナショナリズムに結びつけようという気配が強いように見える。
だが、時代の要請が、先端を切り開くという精神を求めている時に、ローカルな刺激から単なるナショナリズムに導くことは果たして望ましいのか。靖国参拝同様、むしろマイナス面が大きいといえよう。

日露戦争後の教育改革との比較

 大学のオリンピックに出るとは、どういうものなのか。「大学の失われた20年」を世界の先端を開く「知」を十分に担える大学に転換しきれなかったことと要約できるとすれば、同じようにキャッチアップを終えた日露戦争後の明治・大正期の帝国大学と比較することが可能であろう。なぜなら日露戦争での勝利は、明治の国民に一種の成就感を与えたたが、同時に世界の先端に立って何をしたらよいのかとという不安にかられた時でもあったからである。つまり、追いつき追い越したとの感慨も束の間に、では、それまでの教育システムをどう変えたらよいのかという問でもあったのだ。
高校・帝大は欧米との制度補完のため秋入学で、高校入学に半年のギャップイヤーがあった。だが、明治末の平均的な帝大生は、23歳で入学、27歳で卒業という姿だった。小学校から大学卒業までストレートでいけば、20歳入学、23歳卒業であるはずのものが、当時の帝大の学生は半年のギャップイヤー以上に長い「無駄な時間」を要していた。なぜかといえば、欧米の一流どころの大学に比肩する実力を維持するには、厳しい入学基準を採用し、外国の学生・教師と対等たるためには外国語では非常に高いレベルを要求されたため、浪人したり、落第したりしているうちに、そうなってしまったのである。
欧米の一流どころに伍した教育品質を保つというあり方は、日本が独自の評価基準をもっていなかった恐れも示唆する。英文学者、夏目漱石が東大を辞したのは、同じ日本人研究者でも理科系は若くして教授に登用されているのに、自分が講師に留め置かれていることへの抗議だとされる。同じ講師だった上田敏が京都大学に招かれ、教授となったことで「解決」されることになるが、文部官僚の頭の中に、英文学の教授はイギリスから招聘する人のためで、日本人研究者は欧米の研究の翻案でしかないとの考えがあったためだ。一方、理系の日本人の教授が若くして教授になったのは、実験をし、先端の「知」での貢献では西洋の研究者と比較可能であるからだと漱石は考えたようだ。
当時の高等教育は、事実上、高・大一貫教育である。教養教育をになった高等学校のあり方については、日露戦争後の文相になった牧野伸顕が、一般教養、人格教育、社交性などのシンボルである新渡戸稲造を校長に任命した。日露戦争での勝利がバンカラ、孤高主義で鳴らした一高をいっそう傲慢な、国際性のない学生にしてしまうことを恐れてたからである。それは直感的には正しい任命であっただろう。新渡戸は、イギリスのイートンなどを参考に一高を自由な校風の高校に変えた。
当時は高校入試が難関だった。それに帝大生を落第させて、優秀な若者を27歳になるまで西欧基準の教育の桎梏の下におくのは、だが、人生わずか50年の時代に不合理である。国内では若い官吏をはやく雇いたいというニーズがあった。
日露戦争での勝利はあっても軍人志望がただちに減少したわけではなかった。第一次大戦後の軍縮で初めて人気が落ちたにすぎない。そもそも欧米基準だけで日本の高等教育を律する時代は終わったのだ。1918年に発令された大学令は、翌年には慶應、早稲田など8私大を誕生させるなど高等教育の普及を目指す、平等社会を求める世の動きの中での新しい大学像を追及するものだった。講座制の規定もおかれなかった。
一方、改正された帝国大学令には、教育と研究の両方を担うことを謳い、講座制が明記され、それぞれの単位で研究を続けるヨーロッパ型のスタイルが維持された。多くが講座制を望んだからである。講座制については、京都大学の学内議論では廃止が多数であったことが知られている。学術の顕著なる進歩に対応するには硬直的だというわけであろう。だが、東大を含めた他大学では堅持されることを願っていた。そして、予算が定額制から講座単位当たりの積み上げによって組まれるようになると、それは自身の身分保障に加え、研究予算が保証されることを意味した。
一方、先進国の一つとなったからには、研究でリードし、世界に貢献していかなければならないと、新渡戸を筆頭に、吉野作造、美濃部達吉、大河内正敏など15人の東大教授が、大学とは別に優秀な卒業生を選んで学術研究所で、実験設備なども整えて大型の研究ができるような学制改革をすべきだと意見書を提出したのは、1918年のことだ。「大学をもって最高の学府と見なせる時代はすでに過ぎ去らんとす。現時世界における学術の顕著なる進歩は研究微に入り細に及び、一事の薀奥を攻究するもまた当に学者の一生と巨多の財力を費やすべし。」うたっていたが、研究所はすでに理化学研究所があり、そして北里柴三郎が創立した伝染病研究所を東大の付属研究所にしていたこと、関東大震災の復興などに資金が必要であったこともあり、新しい研究所を設けるという機運になかった。
ただ、東大は研究大学であるとの襟持をたもつため、春秋入学であった私大とは別であると、秋入学にこだわった。外部圧力で1913年に始まった学年歴の変更を審議する評議会もだらだらと断続的だった。先に見た1922年(大正10年)4月制へと移行を決めた評議会が20年に開かれたのは、前年に中学高校の修学年限が引き下げられ外堀を埋められたため受諾せざるを得なくなったためだ。
その後の大学のレベル低下の原因は、欧米大学との間にギャップイヤーを持つようになったことなのか、昭和の時代のナショナリスムなのか、講座制を維持し日露戦争が終わっての自己満足にひたっていたことなのか、詳細に立ち入る時間はない。だが、いずれも内向きの姿勢を示すものであり、その内向きの姿勢が原因であることは間違いないだろう。

5.「変化」を態度で示すところから始めよ

先の東工大のシンポジウムでも、北城氏から大学の入学制度を変えることにより、入試のためにと組み立てられてきている高校までの教育のあり方も変わっていくはずで、東工大が進んで、学生の採り方を変えるべきではないか。
京都大学は、一足先に、16年度から高等学校での幅広い経験を評価に加える「特色入試」を開始すると発表している。とくに医学部では、高校2年生でも国際科学オリンピックの出場経験があれば出願できる「飛び入学」制度を導入するとして話題になっている。ただ、これらは少数の枠を設けているだけで、北城氏の質疑は一般入試そのものを変えろということであろう。
三島学長からは、入試の抜本的な改革も検討中であること、その過程で大学入試のあり方は中学・高校の教育の改革とにわとりと卵の関係にあり、現行システムでも東工大にそれなりにふさわしい人材が採れているとの見方も出たとの紹介があった。16年度から新制度採用が可能になればという回答だったが、そもそも統一テストに代わって高校在学時代に学力の到達度をチェックするテストを課す一方、統一テストでは多くの教科にまたがる問題を出し、問題解決型の回答を段階評価するものへと変えるという案が浮上している。
とうぜん、キャッチアップメンタリティとの決別を明確にした入試でなくてはならない。世界を変えたいと大学に入ってくる学生を教育するアメリカと、大学入試バーンアウト症候群に至る学生をかかえる日本の対比は大きいからだ。入試制度の背後にある、学生が何をしたいのか、何になりたいのかという目標が、大学入試、アドミッションの以前に形成されている教育がなされている必要があるのだ。
だが、アベ大学改革を超えた施策が考えられ改革を進めない限り、トップ100大学へ10大学を入れることは不可能に近い。財政制約の中で、いかに大学機能を向上させるのかという観点が欠かせない。そして乏しい財政余力の中で、教育、研究開発に資源を投入するには国民の支持が欠かせない。

欧米でも「痛み」を伴う改革の後に

欧州では国家財政が傷む中で大学の改革が行われ、改革を経た大学に財政援助が行われるという例が多い。先にあげた北欧にかぎらず、大学ランキングの高いイギリスにあっても、政権は二転三転しているが、基本、保守党政権時代のNPM的なシステム改革が持継続される中で、高等教育を含む教育への予算増大が図られてきたことによって、高い大学ランキングが保たれているのである。
東工大のシンポジウムに登壇した州立のカルフォルニア大学(バークレー)の場合も、カルフォルニ州の財政基盤が揺らぎ、社会が必要とする人材や知識技能を持った者の需要の量と質も変わるという危機の中で、改革を行い、カリフォルニア大学システムでは最良の学生をリクルートし、高い研究、教育水準を維持するという任務を果たしてきた。すなわち、州の財政寄与は、2003年の約40%であったが13年には約10%に低下するという財政危機の折には、1144件の特許から生じた6億8500万ドルのロイヤルティ収入も役立ったとはいえ、研究分野でもトップクラスの貢献をしているのは、州財政の寄与が1になる中で,寄付3、外部研究プロジェクトの獲得3、そして授業料の引上げ3の割で賄うようになったことだ。たとえば、学内ノーベル賞学者22人、卒業生ベースで29人は世界でもトップクラスだ。授業料に引上げでは、十分な奨学金という目標に沿って、学部学生に対してもその40%に奨学金・授業料免除を行っている。
財政の大きな制約をもつ日本でも、UCバークレーの財務面での変貌ぶりにならうべきではなかろうか。
かつて筆者が提案したのは、官僚組織の伝統から法的拘束時間が長いことが指摘されている旧国立大の場合、拘束時間の削減、つまり「休暇」見合いで25%の報酬カットをし、その削減した報酬を競争的な研究資金として再配分することである(拙稿『私家版 マニフェスト:土建国家から人を活かすエコ・創知国家へ』)。つまり、カットされた報酬は競争的になる形で研究遂行のための人件費として取り戻されることになる。は、失われた20年で平均報酬が減少していること、平均報酬が減少していること、兼業規定の緩和が行われたことへのけじめ等々を織り込んで、リストラしたことを世間にはっきり見せ、大学への関心を高めることで、初めて研究資金への投入が可能になると考えたからでもある。
UCバークレーで授業料の引上げが機能しているのは、引上げの一方、半数以上の学生が奨学金、授業料免除を受けることができる構造になっているからだ。日本の社会で奨学金(貸与でない)をすぐに拡充できる体制がない以上、「休暇」見合いの減俸は一番バランスのとれた措置でもある。再編された旧国立大は人事としても、年俸制へと変革していくステップにもなる。

MOOCsの活用も大学改革の大きな柱

カルフォルニ州財政の危機と州立大学システムの改革では、サンノゼ州立大学、サンフランシスコ州立大学等、いわゆる州立大学では、トップティアのUCバークレーやUCLAとは異なる形で改革が行われ、そこではMOOCsを用いた反転教育がコストパーフォーマンスのよい教育として大きな役割を担っている。その一方、MOOCsには、大学がMOOCsを優秀な学生をリクルートするための道具として活用する、スタンダードなものは英米の大学が提供することが多くなり、MOOCsへの貢献の少ない日本を不利にするなど、アメリカが知での覇権を維持するための手段ではないかとの見方もある(拙著『苦悩し、変貌するアメリカ』KDP、http://www.amazon.co.jp/dp/B00DJ7V0VO/)。だが、先の東工大のシンポジウムに登場したMITやUCバークレーの報告のように、最近では学生の理解度チェックのために簡易版MOOCsの利用は、両大学でもどんどん利用されるようになっている。MOOCsの利用が、大学のカリキュラムをステップ化し、相互調整する上で不可欠にもなってきているからだ。
オリンピック選手の養成のためには、北城氏がいうように、カネをかけなくてはならないが同時にトレーニングも科学的に考え、効率的、効果的にしていく必要がある。MOOCsは、その科学的トレイニングの基礎をなす。
日本の大学でも、アンダーグラヂュエートのカリキュラムの英語化を進めるためにも英語版のMOOCsを用いた「反転教育」を活用すると共に、日本語版MOOCsを大学のカリキュラムをステップ化し、相互調整、さらには大学教育の品質保証のために活用すべきだ(『新世代オンライン教育、MOOCsと大学改革』http://www.amazon.co.jp/dp/B00DW4RFIG/)。つまり、MOOCsは、教えられる内容を寄せ集めただけの現行カリキュラムを短期間に構造化し、相互調整のできたカリキュラムに変え、大学改革を進めるためには不可欠なものなのだ。教育面からの大学評価に際し、大学評価機構のような裁量制による評価だけではなく、たとえば、一つの学科についてコアとなるいくつかのMOOCsのコースを選び出し、そのコースの実施によって学生がどれほどの学びができているのかをチェックすることによって、教育の質を測るというような定量的手法を取り入れていくべきではないかというのが提案の趣旨だ。これは、東工大がMITやUCバークレーと単位交換ができるよう講義内容の摺り合わせをしていること、2000年にヨーロッパで始まった大学間で教育の内容とその成果に関する情報を共有し、交流を促進するために行われているチューニングとは補完的なものになろう。
筆者は、『組織科学』に寄せた「大学評価:ルールか、裁量か」では、定量化は情実を排し、短期的には有効だが、長期的には問題がありえる。客観的に見えながらかならずしもそう言い切れず、専門家による裁量的判断も欠かせないとした。だが、改革を短期間に進めるためには、中国の大学が改革を徹底するために教員採用、評価に、論文の数、その質だけで数量化したことならって英語版、日本語版MOOCsをベースに品質管理をしてもよいのではないか。

大学のガバナンス改革は必要か

東京大学の浜田純一学長が熱意をもって秋入学を梃子に大学改革を進めようとしてできなかったことは先に触れた。秋入学のとりやめは、就職活動など世間への配慮もあろうが、今後の課題として英語講義の拡充、外人教師の増員をうたうなど、留学生を大々的に招くだけの陣容が整っていず、大学院に十分な質をそなえた留学生がとれないなど大学に競争の自信がなかったために、いわゆるフンボルト・モデルを主張する教員による改革拒否だったとられても致し方ない面もある。つまり、フンボルト・モデルが大学自治といいながら、教授会の意思決定権限(特に拒否権)が、その意思決定によってもたらされる財政的・戦略的な帰結に責任を負うことなく行使され、経営体になっていないという負の側面をもつことを指しているのだ。
もちろん、冒頭で見た東工大の例のように、秋入学制挫折後に、大学改革が進められており、半歩前進であることは間違いない。だが、改革のスピードはその程度でよいのかという疑問が残る。改革のスピードの妥当性をチェックする指標の一つは、トップクラスを目指す大学での受入れ留学生の増加と送り出す留学生の増加になるかということだろう。秋入学への転換は、ギャップイヤーをなくすことで日本から海外への留学を促進すると同時に、日本の大学が海外からの留学生の受け入れを増やす契機にしたいとの思惑があったからである。
教育は息の長い投資である。当面、改革の行方を見守ることになろうが、その進展が遅いとすれば、欧米の一流大学とはまったく懸け離れたガバナンス構造にあることに注目が集まり、大学改革には外からの圧力も必要だという北城氏のような議論が勢いを増すことも考えられる。アベノミクス推進の一つの柱として教育改革を置いており、参議院選挙後にもクオーター制だけでよいのか、自治任せの大学ガバナンスでは改革は不可能だ、日本版Caltecが必要だといった議論が百出する恐れもある。そうなると、大学改革の一環として、大学ガバナンス改善の立法化も考えられる状況が生まれる可能性も出てくるのではないか。

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posted by 高橋琢磨 at 13:47| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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