2014年08月31日

2014年9月号  日本における「法の支配」と民主主義 - 高橋琢磨

【趣旨】
「法の支配」を提唱する安倍首相が、憲法解釈や、一票格差問題無視など、「法の支配」を原則を冒しているのではないかとの議論がある。そうとも言えるだろう。だが、1885年に著されたアルバート・ダイシーの『憲法序説』の原著が5000冊も輸入されたという戦前の日本に立ち返って、日本の民主主義と法の支配の変遷を見るなかで、戦前と戦後の断絶の修復作業に思いをいたすことも、69年目の夏にふさわしい作業ではないか。

【キーワード】
終戦と敗戦、明治憲法、憲法9条、法の支配、民主主義、議会、昭和天皇


今年の夏は、戦後69年目だった。世の中ではウクライナ、南シナ海問題などが起こり冷戦後の時代が終わって、新たな混迷の時代に入っている。その時になぜ日本だけが未だに戦後なのか。しかも敗戦と言い切れず、終戦などといって誤魔化している。『敗戦後論』を上梓した加藤典洋も、雑誌『世界』に登場する顔ぶれの変化を「巴投げをくった」ようなものだとし、敗戦による「ねじれ」が依然消えていなまま今日へとつながっているとする。
この夏に出版された吹田尚一『近代日本の興隆と大東亜戦争』は、戦前昭和、戦後昭和の断絶をみずからの体験とする世代による著者による「断絶」修復への渾身の挑戦である。加藤は、戦後日本人の人格的分裂を克服するためには、「語り口」が重要だと指摘したが、吹田の態度は「語り口」を超えて、「大東亜戦争は何だったのか」という問題に正面しており、読み手も、息が詰まる思いをする。
 筆者は、吹田のように「ねじれ」や「断絶」を自らの体験とした世代ではない。加藤と同じように読み聞きするなかで痛感するようになった世代だ。だが、五百旗頭真のように安易に戦前と戦後はつながっている、あるいは吉田茂のようにあの時代の日本は一時的な迷いをしたのだと簡単に片づけたくないという思いは、吹田と共有する。
しかしながら、吹田のように日本が大東亜戦争に突入していったのは様々な理由があったのだと跡づけ思惟を深めていったような準備ができていない。そして、日本の敗戦にもかかわらず昭和という時代に天皇として在位し、戦前と戦後にわたる時代を「繋ぐことができた」ほとんど唯一の存在であった昭和天皇の『昭和天皇実録』も未だ読むことはできない。
そこで、日本における「法の支配」を簡単に振り返りながら、五箇条の誓文以来の日本の伝統だという民主主義の様相をみることで、戦前昭和と戦後昭和がどんな関係にあったのかを探ることをもって敗戦の69度目の記念日の感想としたい。

昭和天皇が引き継いだ明治憲法

昭和天皇が、自らが統治するにあたって、引き継いだ憲法は、1889年に公布された明治欽定憲法である。明治時代に憲法を制定するミッションを負った伊藤博文は、先進国のイギリスやフランスよりも、そして新しい国、アメリカよりも、後進性の高いプロシャをベンチマークすることが適切であると考えた。プロシャも近代の超克をする仲間であり、ことさらに日本だけが近代の超克をせまられることはなかったからだ。イギリスをベンチマークして日本を建国していこうと考えていた福沢諭吉もまた、実際の政策論議を始めてみて、乏しい国力を考えれば致し方ないのかと、富国強兵を唱えるようになっていく。
明治憲法では、天皇は国務大権の長でもあり、戦争遂行での長、つまり統帥大権も握っていた。さらに水戸国学の流れをくんで神道を国家神道とし、天臨した神の「万世一系の子孫」天皇によって統治される、神政国家として構築されていた。明治維新に際し、日本は、国民の統合を図るべく、キリスト教国家のひそみに倣ったものである。
このころ、イギリスで「法の支配」を提唱したのが、オックスフォード大学の憲法学者(ヴァイナー講座担当教授)のアルバート・ダイシーである。1885年に著された『憲法序説』は今日も「法の支配」のバイブルとされる。故伊藤正巳とともに同著の翻訳者になった筑波大学名誉教授の田島裕は、『議会主権と法の支配』を上梓し、民主主義とは国民に国家主権があることを意味し、その国民の意思は議会を通じて確定されるとし、法の支配が議会主権、民主主義の根幹となっていることを説明する。イギリスの議会は、万能の権力をもっており、法律を制定することによって、国民の生命を奪うことすらできる生殺与奪の絶対権利をもっていると、その議会主権の権能を表現している。
ダイシーの『憲法序説』は、君臨すれども統治せずの天皇像を示すものだ。丸善の80年史によれば、その原著の輸入冊数は5000冊を超え、丸善の扱った書籍の中でもベストセラーだった。そして大正天皇となる皇太子も、そうした君臨すれども統治せずの天皇像で養育された。つまり、日本の長い歴史の中でみた天皇の役割もまた、国民をいつくしみ、日本の文化を継承し発展させることだったから、大正天皇もそうした伝統的な天皇として育てられたのだ。歌作などでは才能を示したことが知られる。
だが、『大正天皇』を上梓した原武史によれば、後になって明治天皇と山県有朋など政治指導者たちから時代にそぐわない天皇だと判断された。このため大正天皇は政治の表舞台への登場が許されず、病弱との理由で宮廷内に押し込められた存在となった。
そこで明治天皇や山県、原敬などの明治の指導者からプロシャ的な指導者として育てられたのが昭和天皇だということになる。帝王学は東郷平八郎元帥が当たった。ところが、皇太子教育が目標としていたドイツ、ことにウォーレンツオレル家の帝政ドイツが第一次大戦で敗北を喫し、王室も消滅してしまった。
こうした状況の中で、皇太子教育の卒業旅行との位置づけで外遊が企画された。最早、ウォーレンツオレル家を訪ねることはできない。しかも、第一次大戦前後のウォーレンツオレル家の当主、ウィルヘルムⅡ世の言動に関しては、マックス・ウェーバーが『職業として政治』の中で、いらざるパーフォーマンスをしてドイツの外交をミスリードしたとして非難してやまないものであった。カイザー帝王学か学ぶものがなくなっていたのだ。
当然、皇太子の外遊の目的も、第一次大戦後が結果としてこの国と世界にもたらした政治改革の嵐と、ヨーロッパにおける君主制の倒壊とを巧みに乗り切った国王ジョージ五世に学ぶことに切り替えられた。そして、皇太子は、官僚たちの杞憂を杞憂に終わらせる皇室外交をやってのけた。ロンドン待ち受けて出迎え、その後を見守った吉田茂によれば、「天性の御美質」によってジョージ五世から「あたかも近親のご対面なるかのように」受け入れられたのを初め、イギリス社会の上下から「非常な歓迎」を受けたのである。
帰国し、幽閉された大正天皇に代わった裕仁摂政宮が外遊で学んだイギリスの王室は「統治すれども君臨せず」である。摂政宮はそれでよいと考えていた。
天皇制としては、イギリス式への転換準備はできていたのだ。ところが、明治憲法がそこにあり、周辺の意識も変わっていなかった。同時代の稀代のジャーナリスト、長谷川如是閑も指摘しているように、天皇の権能を利用して、ことを運ぼうという輩が多かったのである。

昭和維新の課題

日本の人口は明治の初めには3481万人であったものが、大正時代に入るころには5000万を超えた。人口の急激な増加は、徴兵制の下で平等観を植え付けられ、義務教育の普及によって教育を受けた若年人口の増大でもある。エリート層だけの英知に頼る明治憲法では、日本という国を統治できないのではないかと見るのも不思議ではない。
それに対する回答が求められていた。国内での改革要求には、兵制改革、労働組合の公認、税制改革、貴族院改革など多岐にわたっていた。だが、何といっても、大きな改革は普通選挙制度の導入だった。
大正デモクラシーの結実としての普選の導入に成功したのが、高橋是清、犬養毅、加藤高明の三人が形成した護憲三派である。第二次護憲運動と呼ばれるものである。護憲三派は、政党内閣の結成、普通選挙の実施などを選挙公約に掲げて戦い、衆議院選で勝利を収めた。選挙のさなか、裕仁殿下・良子女王の結婚式が行われた。最期の饗宴には高橋是清も招かれ、裕仁摂政宮から「高橋、選挙に勝っておめでとう」と声をかけられた。
選挙で第一党となった憲政会総裁の加藤高明に組閣の命が下され、護憲三派の内閣は、公約通りに衆議院選挙法を改正し、普通選挙を勝ち取ったのである。1924年6月のことである。ここに如是閑のいう「民意」を議会という「討議」と「決定」による支配へと導く制度が生まれたのである。
普通選挙で、「民意」がくみ取られ、その意志が政党内閣の政策を形成していくことが期待される昭和デモクラシーの幕があがったのである。昭和になって、日本の大衆が「民意」の形成に向かって動き出したことは間違いない。こうした「民意」の重要性を認識すれば、選挙制度の下で展開していく昭和史を、吉田茂のように日本史の中で全く「異質」の時代だと切って捨てる論調に異義を唱えることもできよう。日本史を専門とする坂野潤治の『昭和史の決定的瞬間』、外交史を専門とする井上寿一の『アジア主義を問い直す』『日中戦争下の日本』などもそうした試みの例だ。
 では、大衆なり、国民なりは、いかにして生まれたのか。明治維新は、それまでの士農工商の身分制を廃し天皇の臣として平等な人口を生み出した。そして、徴兵制は、導入された直後は辞退者が7、8割に達するという不人気であったが日露戦争に差しかかるころまでには完全に定着した。こうして、政府が臣民の生殺の権利をもつことになったことの反対給付として、国家のために命を失ったもののために宗教的な形で英霊を祀り、経済的補償をすることが必要に迫られた。
ところが、日本でも明治期が始まった途端に日本兵が戦闘で亡くなれば靖国神社に祭られるようになっており、上記でみたイギリスのように議会が法律を制定することによって、国民の生命を奪うことすらできる生殺与奪の絶対権利という手続きと、それに対応する英霊の祀りの形式を選ぶ機会を失っていた。
だが、昭和の時代に向かって、国民の平等意識も強化されたことも確かだ。その平等観が大正デモクラシーとなり、普選制度の確立などの成果をもたらした。だが、吉野作造の民本主義というものも、明治憲法の天皇制度を前提に工夫されたものである。議会選挙で議員を選び、その議員に自分の権利の施行を依頼するといった間接的民主主義を前提にしなかったのだ。
では、明治憲法下での平等意識はどのように発露したのだろうか。一つは、国民の一人一人が天皇と直接つながっているという感覚のシェアだ。
こうした「感覚」に応えたものが、昭和3年、1928年12月に行われた皇居前広場で行われた親閲式であった。親閲式とは、従来の観兵式のやり方を学生や教員、声援団員などが集まった場合にも適用し、天皇の前で分列式や奉迎歌斉唱、万歳などを行う儀式である。在郷軍人の表彰者を対象としたものほかにも、東京など一府四県の中学校以上の諸学校、青年訓練所などを対象とするものも行われた。
参加した7万余の若き男女のひとり、横浜高商の学生の次のような感想は、原武史によれば、皇居前広場が昭和になって新しい政治空間となったことを示していた。
「天皇陛下の概念が昔と今とではだいぶ変わっている。昔は吾々が近寄ることも拝することも出来ない雲の上の最高のお方としてであつたが、今は日本の民草と名付く者は総て貴き龍顔を拝することが出来る。我等が厳守としての聖上陛下である。私は当日目のあたり陛下の御姿や龍顔を拝する栄誉を持った。」
 ここには、確かにイメージされなかった天皇が目の前にあり、新しい政治空間の皇居前広場への天皇のお出ましに対し、国民の側から「我等が天皇」との呼応があった。そして、即位と同時に大元帥となった新天皇の時間の多くが軍のために割かれ、白馬に乗った若き天皇の姿が将校たちの印象として刻まれることになった。直接天皇とつながっている感覚の将校版である。
そして平等意識の今一つの現れが、持てる者への憎しみである。戦前の昭和は、今話題のトマ・ピケティの『21世紀の資本論』でも明らかにされているように極端な不平等社会だった。昭和の先駆として起こったのが、安田財閥の安田善次郎を殺戮した朝日平吾事件だ。この事件が新しいタイプのテロだと最初に気づいたのは、前出の吉野作造で、吉野は「平等を求める新時代の理想と古武士的精神の混血児、時代の生んだ一奇形児だと喝破した。先の大衆と天皇の接近、将校と天皇との接近は、このテロ行為とも結びついて、昭和の危機の火種となっていく。
 さて、新天皇は、皇位継承直後に、西園寺公望公爵に対して、改めてその功績をたたえ、元老として朕を輔弼せよと、その地位を再確認する勅語をだした。公家の出身ながら戊辰戦争を戦った明治の元勲のただ一人の生き残りで、天皇が積極的に政治に関与しないというイギリス的な君主という在り方を支持していた。事実上、首相指名権をもっていたため新聞記者は政局になるたびごとに興津詣でをしていた。当時、西園寺が静岡県の興津にあった別荘、坐漁荘に滞在していることが多かったからである。一方、牧野伸顕伯爵は新天皇が摂政になった直後に勅語の管理者たる内大臣になっていたが、単なる御璽の管理者に止まらず新天皇の補佐役として重要な役割を担った。しかし1935年に天皇側近に対する攻撃への配慮から辞任することになる。牧野は元勲の大久保利通の次男である。牧野の後を継ぐのが、元勲、木戸孝充の孫の侯爵の木戸幸一である。
 では、日本を取り巻く安全保障環境はいかなるものであったのだろうか。元老が支持した天皇がイギリス的な君主という在り方でよいのならば、大正天皇でことたりたはずだ。日露戦争後は、日本がキャッチアップ過程を終えた画期でもあったが、中国をめぐる列強の思惑が交錯する極めて不透明な安全保障環境となった。
アメリカはマニフェストデストネーで、ハワイを併合し、フィリピンを傘下に収めるなど太平洋の西端にまでその勢力をのばしていた。アメリカが望んだことは、アジアの門戸開放だった。そのためには、日本の台頭を望まず、アジアでの現状維持がしたいがためにロシアに力を温存させようとした。一方、ロシアの南下で自国の権益が侵されると日英同盟によって日本にロシアの南下を食い止めさせることに成功したイギリスは、ソフトパワーを用いながら権益を拡大していこうと考えるようになる。アメリカは、中国という国の実体があるという前提であり、イギリスは、そうした実体がなくとも権益が確保されればよいとの立場だった。だが、日本にとって隣国に当たる、中国では軍閥が割拠し、相戦っているという不安定な状況は、まさに脅威と感じざるを得ない状況にあった。こうした状況下で、作成されたのが「帝国国防方針」である。アメリカが将来の敵国となると記載されていた。一方、アメリカでも近々に起こるという想定ではないが、対日戦争の遂行戦略としてオレンジ作戦が策定された。
不安定な中国の北辺にある日露戦争の権益を守ろうと、軍事介入の口実をつくるために起こされた事件が、「満州某大事件」である。議会でも、政府に真相究明が要請されたが、田中義一首相は、真相を究明し、首謀者を軍法会議にかけると確約した。ところが、田中は、軍をおもんばかって、実行しなかった。これに対し、当時28歳の天皇は、宮中グループの進言を得て、前言を覆したとして田中を叱責した。
田中は退陣し、憲政会の浜口雄幸が首班についた。政権交代が行われたという意味では二大政党制は機能していたといえようが、議会も、そして天皇もまた、軍法会議にかけて、真相を明らかにし、厳重な処分を下すことができなかった。議会に事実上の主権を認めるのか、それとも天皇が、明治憲法の字面どおりに統治権をもって処理しておくべきだったのか、権力の空白を残したまま事件は終わった。この手続きを誤ったがために、内には軍記が乱れ、その後、三月事件、満洲事変、10月事件、5・15事件、2・16事件へと下剋上が蔓延していくことになる。
田中は辞職後、間もなく死亡した。悶死とも自死ともいわれる。前述の「帝国国防方針」作者であった陸軍きっての秀才の最後であった。天皇は『独白録』では、田中を叱責したのは若気の至りであったとしているが、天皇がイギリス流の「君臨すれども統治せず」の態度を貫くには憲法の規定が立ちはだかった。そして、憲法を前提に天皇がなお「ベトー」をしないよう閣僚たちに天皇の意図を感じた形で振舞わせようとすると、田中自身も、その閣僚も天皇の意図を秘密にしておけなかったのである。

アメリカ流の「法の支配」による包囲網と日本での異常なまでの危機意識

前出の吹田尚一は、日露戦争後に日米でつくったいくつかの敵を想定する中での1国をオレンジ作戦、「帝国国防方針」の中で書き留めたことが、40年後には自己実現的になってしまったのは何故かを問う。
アメリカは、日英同盟が日本のアジアにおける権益拡張を後押しすると、これを解消させるべく「法の支配」の理念外交を展開した。具体的には条約で日本を包囲するという戦略である。そして、中国が国としての実体をもっているかどうかを問わなかった。その一方、日本はゲル的状況にあって実体のない中国の一隅ごとを固めて行こうとするが泥沼に陥り、結局アメリカとの貿易に依存する経済が持続できない中で、アウタルキーとアジアの解放という方向性をとらざるを得なくなっていき、アメリカと衝突することになったのではないかと考える。
田中内閣は、1928年8月に戦争放棄に関する条約(パリ条約、ケロッグ=ブリアン条約、不戦条約)を結んでいる。東京裁判で日本を裁く際にも、この不戦条約への違反が問われたが、当時、不戦条約を議論するようになると、国内ではいろいろな議論が起こった。『昭和天皇』を上梓したハーバート・ビックスは、篠原初枝を引用して、満洲における権益や治外法権を守るのに将来武力干渉が必要になった場合、条約がそれを許す「抜け道」を用意することに力を注いだとする。
確かにその通りではあるだが、それほど単純ではなかった。篠原初枝『戦争の法から平和の法へ』によれば、条約の推進者であったアメリカ国務長官のケロッグが「自衛権の行使を主張する国は、国際世論と条約の締結国の前で自分の行為を正当だと証明しなければならない」とし、国際世論の存在が、自衛権の主張に説得力を持たせたのだとしていた。しかし、イギリスはエジプトとペルシャ湾岸地方に、フランスは既得諸条約について留保を行っていた。そしてアメリカにはモンロー主義の原則がある。日本は「人民の名において」という、条約締結主体についての議論が国内での政争ともなった。しかし、あえて蒙満権益の留保を行わなかった。多国間条約では、一国の主張が認められれば、それは締結国の主張であり、権利だからである。
これを機会に、日本の蒙満権益に関して省察が行われることとなった。だが、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』によれば、議論は「蒙満の権利は諸外国から過去も現在も認められていない」(外務省亜細亜局長・有田八郎)から、過去は認められていたが現在は認められていない」(陸軍)、「ロシアの権益を引き継いだものとして、過去も現在も認められたもの」(外務省駐華公使・吉沢謙吉)に至るまで混乱していた。だが、この権益を守ろうとして、日本は、その後、ワシントン作成の諸条約も破棄し、国際連盟も脱退して、孤立化の道を歩むことになる。
ところが、ここに、大胆な提案をしていた人物がいた。雑誌『東洋経済新報』による石橋湛山である。『東洋経済新報』は、イギリスの『エコノミスト』などを模範に創刊され、イギリス流の自由主義・合理主義・経験主義をもって論じた。すなわち、『東洋経済新報』では、三浦銕太郎主幹のもと大日本主義の「軍国主義、専制主義、国家主義」に対し、イギリスの自由党の小英国主義にならった「小日本主義」を掲げ、「産業主義、自由主義、個人主義」を標榜していた。
社説を書く記者の中では最年少の石橋湛山は、その匿名性のため名を広く知られることはなかったが、実際の事件、事象に対応し、湛山の描く小日本主義の像はだんだんと明確になっていく。彼が唱えたのは、植民地、満洲での権益を放棄し、貿易で国を立てる小日本主義である。明治政府の勝ち取った蒙満での権益が日本の生命線と考えられ、これをどう守り抜き、恐慌から経済を救うというのが大方の見方であった。これに対し湛山は、中国のナショナリズムを正しく評価し、ナショナリズムの高揚しているアジアで生きていくには、日本の従来からの権益を放棄する小日本主義で行く以外にないと考えていたのだ。
アジアでは、現実のプレゼンスが少なかったアメリカの門戸開放政策に呼応しながら、ワシントン作成の諸条約の枠内でも生きる道もあったのではなかろうか。なぜ日本では、「帝国国防方針」のような重要な政策を軍人にだけさせ、もっと視野を広げ、議論をしながら幅広の政策をつくっていくことができなかったのであろうか。
如是閑の主張するプロシャ型のもつ明治憲法の持つ欠陥については、天皇の名においてことをなせば何でもできてしまうと、明治憲法下での統治機構には欠陥があることはすでに斎藤隆夫が1918年の自著、『憲法及び政治論集』の中で指摘していた。天皇に与えられた統帥権であり、統治大権である。
だが、多くが統帥権こそが問題であったとの指摘をしている。統帥権とは、軍の展開に関して天皇が参謀総長、軍令部長の助言である、補翼を得て、決定するというものである。補翼は、一般国事について首相、国務相が天皇に助言をする輔弼の枠外とされた。つまり、シビリアン・コントロールが貫かれていないのである。
1926年に誕生した田中内閣以来、浜口内閣、そして犬養内閣と政友会と立憲民政党の二大政党が交互に首班に就き、この手続きは憲政の常道といわれてきた。ところが明治憲法の桎梏のため昭和初期の議会政治は選挙結果と首班の指名が連動していない。首班指名は元老の助言を得て天皇がしていたからである。このいずれの場合も、首班指名は前の多数与党が行き詰まり少数野党の党首に首相の大命が下る形で行われる運命にある。すると少数与党が多数を得るために解散、総選挙をするというパタンが必然になる。ところが、お互いがお互いをたたきあい、いい点はまねるために政党対立軸が不明化する一方、二大政党から人材が払底し、このルールが適用することが困難になったのである。西園寺が次期首相として奏請したのが海軍大将の斎藤実なのである。
こうして生まれたのが、官僚出身者を中心として二大政党の代表を加えた斎藤を首班とする挙国一致内閣である。これをどう評価するのか。
欧州でもイタリアのムッソリーニ政権に続いて32年7月には、ナチス政権が誕生し、スペインでも民主革命に対して帝政派の反革命が起こって各国から義勇軍が馳せ参じていた。ヘミングウエイの小説『誰がために鐘が鳴る』の舞台である。ヨーロッパ全体が騒然とし始めていた。国際主義の楽観論が消え、ナショナリズムにゆれるヨーロッパを視察して帰った尾崎行雄(咢堂)が、遺言のつもりで書いたのが「墓標の代わりに」であった。憲政の神とたてまつられていた尾崎の目にも、満洲事変、そして5・15事件後の日本は憂慮に耐えざる存在と映ったのである。京都大学の末川博が「自由主義の没落と法治主義の危機」で、政治評論家の佐々弘雄が、「政党政治の崩壊過程」で、これをフォローし、ともに政党時代の終わりを嘆いた。以後政党内閣は、戦後に至るまで復活することはなかったという意味では、これらのコメントは正鵠を射ていた。
憲法学者、美濃部達吉は『議会政治の検討』の中で「議会に基礎を有する内閣といえば、今の議会においては言うまでもなく政友会内閣でなければならぬ。しかし政友会内閣が果たして国難打開の責任に堪うるものとして国民の信頼を博しうるやといえば、それはきわめて疑わしい」としていた。そして「円卓巨頭会議」を提唱し、天皇機関説を唱えた。天皇機関説とは、主権は国家にあり、天皇は主権国家の下にある諸機関の中の最高機関として機能しているというものである。美濃部天皇機関説は、よくても議会軽視、究極のところでは議会無視である。
美濃部のいう内閣中心主義とは、一言でいえば、明治憲法にあっても内閣首相の権限は強いと解釈したものだ。すなわち、各個別の国務大臣が直接輔弼責任を負うものの他に、内閣の共同で責任を負わなくてはならない問題があり、明治憲法はそれを認める体系になっているというのである。統帥権に関しても、作戦や軍隊の指揮ということは憲法⒒条によって独立しているが、憲法12条の軍隊の編成、予算といった分野は内閣で負わなくてはならない分野と見なした。逆にいえば、美濃部説では軍に対して内閣の権限が、大きいことを意味する。
また、統制派が政権、内調と手を結んで、着実に改革を進めていく道を選ぶとすれば、クーデターによって一挙に実権を握ろうという皇道派にとっては自分たちが陸軍の組織の中で浮き上がり、排除されかねないことであった。こうした陸軍の内部事情を考え、政友会と陸軍皇道派が急接近したのは弱者連合としてである。政友会は、「機関説排撃、責任政治の確立」という新方針を打ち出した。美濃部攻撃が民政党の政友会締め出しという事態打開の突破口になるとみたのである。確かに、美濃部の円卓巨頭会議も、そして内閣調査局、内閣審議会も議会を無視しており、責任政治の確立には大義名分が立つ。
貴族院で天皇機関説を国体に背く学説とし、緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になると、美濃部を「学匪」「謀叛人」と非難したのが貴族院議員の菊池武夫である。菊池は陸軍中将から男爵になった右翼で、質問は蓑田胸喜ら原理日本社を背景にしていた。衆議院では全員一致で国体明徴決議案が満場一致で可決され、陸軍作成の機関説排撃のパンフレット、15万部の配布が決められた。軍部は国体明徴論によって、美濃部達吉や吉野作造が唱えたような天皇の権限を縮小して国民主権に近づけようという主張も持つ天皇機関説に断固反対した。
天皇が「憲法は天皇機関説でできている。美濃部についても不忠な臣とは思っていない」と、鈴木侍従長に漏らしていた。だが、それが軍に伝えられたり、政府の方針決定に反映させるということはなかった。
こうした中で、青年将校たちが天皇親政を求めるクーデター、2・16事件が起こされた。先に指摘した天皇と直接のつながりをもつ感情と農村の窮状を救うという意図とが、こうした形をとってしまったのである。その行動を支えてものが、北一輝の『国家改造案原理大綱』であったとされる。事件の後に行われた軍事法廷でも、直接の参加者でなかった北に死刑の判決が下された。
北は、『支那革命外史』の著書もあり、もともとアジア・モンロー主義者として知られた存在だった。辛亥革命が起こると、直ちに中国に渡り、かねてから知っていた宋教仁などを支援するような行動派であり、自らも革命家でもあった。彼の所論は、日本は中国の独立を助け、その独立した中国と連携して、中国はロシアを、日本はイギリスをアジアから駆逐し、インドを独立させるなどアジアをアジア人の手のうちに置くべきだ、というものだ。
しかし、その後の日本政府の政策は中国との連携を探るというよりも、欧米列強との協調の中で中国を侵略するというものであった。そして、五・四運動がはっきりと日本を標的にしていることが分かると北の危機感は極度に達した。中国政策を変えるのは、日本国内を変える以外にないとの思いで、着手したのが『国家改造案原理大綱』なのである。
北は天皇大権によりまず憲法を停止し、国家改造をせよと主張する。国家総動員の帰結として産業力を一歩、一歩付けて行こうと考えた永田に対し、こちらは革命である。天皇は憲法を停止し、財産を国に返還したあとは、普通選挙で選ばれた国民改造会議と選ばれた政府に具体的な改造策の策定、実行を移すことになる。天皇制のもとで、なおかつ民意を追求していくとすれば、北にとって、その両者を統合するには天皇を傀儡とする以外に考えられなかったのである。
その後、どうするのか。北の考えでは、資本主義経済は存続するが、徹底した平等主義をこれに盛り込む。新聞紙条例など政府が個人を規制する法律は全廃され、個人の自由、人権を蹂躙するようなことを役人がすれば実刑で処罰されるというものだ。内に向かって唱えたものは、右翼思想というよりも社会主義、ラディカルな民主主義ともいえる。
北の構想は、雄大で、革命的だ。だが、強い危機意識は、宗教と結びつかずにいなかった。それはアメリカでも、南北戦争の時、イラク戦争の時、原理主義が生まれたことからも窺える。戦前期昭和でも、極端な危機意識が神がかりを生んだのだ。合理的な考え方である天皇機関説が否定されると、天皇そのものが国体であるという明治憲法のアポリアが露呈したといってもよいだろう。政治、社会、教育などすべてが「国体の本義」に則って再構築されなくてはならないことになった。天皇が機関説でよいではないかというのに美濃部への攻撃が公然とおこなわれたことでも分かるように「天壌無窮の神勅」の皇国日本が一人歩きし始めたのである。
国体とは、明治の日本が近代をとりこむ日本にふさわしいものとするため便宜的に設けたという性格のものだった。つまり明治憲法では、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を定めているが、これは、信教の自由を確保し、キリスト教を信仰することの自由を認めるため、神道を皇室と結び付ける一方、キリスト教によって国内統一をしてきた西欧にならって神道によって国家統一をするというところに狙いがあった。ところが、昭和という国防時代を迎え、国体、国体の再構築ということが叫ばれるようになると、明治時代にはあまり重視されなかった皇室祭祀が公式行事となり頻繁に行われるようになった一方、伊勢神宮を頂点とする神社が社格をつけられたピラミッド組織となり、国民にも神社の前では礼拝をしながら進行しなければならないといった強制が行われ、神道の制度化が進んだ。先に明治国家構築に当たっての設計ミスが、天皇の神聖化によって増幅したのである。「国体」の鋳直しによって、神道ナショナリズムの様相を呈してきた。
では、実際の政策決定はどのようになされたのか。近衛内閣の開戦準備の「帝国国策遂行要領」の閣議決定の際には、御前会議で天皇が「外交を主に、それが不可能な時には戦争も辞さないというのだな」と、念を押した。事実上の差し戻しである。自己の判断を明確に示した、明治憲法上の天皇の行為になろう。このため、開戦の最終決定は行われなかった。そして、それをしなければ命にもかかわると天皇自身が感じる中で開戦が決まる。そして、終戦の決定でも、天皇がイニシアティブをとった。
憲法学者の佐々木惣一が、『わが国憲法の独自性』を上梓し、国体、統治にかんしても憲法制定当時の精神、解釈に戻せと提言したのは、まさに戦時中の1943年のことだ。佐々木によれば、抽象的な概念としての「国家」と各国固有の原理としての「実質」と区別しなければならず、この「実質」の担い手が「統治」だというのである。明治憲法の起草者、伊藤博文の注釈書『憲法義解』によれば、「統治」の語が採用される以前のものは記紀にあらわれる「治(シラ)ス」であった。だが、漢語に統一するため「統治」になった経緯がある。「シラス」とは「知る」の尊敬表現であり、理性の働きを意味する概念だ。そこで佐々木は「統治」とは、国家と国民各自を正しい状態にあらしめるための準拠、つまり公権力を拘束する規範(暴力の排除)であると同時に、国民の行為の指針(理性原理)として定義されるとした。
明治憲法のもとで明治の元老が目配りできた時代には、理性が働き、政治的統合があったと見た清沢の見方などにも通じるものである。佐々木は京都大学の滝川事件に抗議して辞職し、同志社大学に転じ、当時は学長であった。美濃部の天皇機関説では、これを支持する立場であった。記紀の再評価という面があるとしても、言論統制の時代によくぞここまで踏み込んだものである。佐々木は戦後に新憲法の起草者の一人となる。

新憲法:欽定から民定へという主権の変動

戦前期に天皇機関説を唱え、憲法論議の先端を行っていたと自負していた美濃部達吉は立憲君主制と立憲民主制とは同じ立憲のカテゴリーにあり帝国憲法そのままで戦後体制へ移行可能だと主張した。斎藤の天皇観も古色蒼然としたものであり、安倍能成も教育勅語は残すべきだと主張した。
当然、GHQはそうした議論に耳を貸さなかった。憲法を誰がつくるかという視点からすれば、欽定から民定へという主権の変動を見せる必要があったからだ。憲法が国家による不当な諸権利の制限から国民を保護するものであるとする「法の支配」の理論からすれば、国家が憲法制定能力をもつことは、泥棒に自らの縄をなわせる行為と同じことになるという自己矛盾も生じる。だが、現実の流れとしては枢密院顧問の諮詢および帝国憲法大73条による帝国議会の決議で大日本帝国憲法を改正する形で日本国憲法が生まれたのだ。
憲法制定権における主権の変動とは、革命に外ならない。主権が変わるためには、日本の場合、敗戦とGHQという圧力が必要であった。岩波の『世界』が美濃部などオールドリベラリストの顔ぶれをさっさと丸山真男、都留重人などの革新派リベラリストに入れ替えたが、加藤典洋は、これを宮廷革命にたとえた。
だが、本物の宮廷革命も起こっていたのだ。昭和天皇は、「人間宣言」の冒頭で五箇条の御誓文を引用することによって、今日本が行っている民主化は占領軍の意思で行っているものではなく、明治維新からの流れの中での自分たちの手で進められている改革だという意識を鼓舞した。そして、オールドリベラリストでも、戦前に岡田内閣の法制局長官であった金森徳次郎には、出番があった。吉田内閣の新憲法制定担当になり、国体を「天皇を憧れの中心として、心の繋がりを持って統合している国家」であると答弁し、無事、新憲法を成立させたからだ。法制局長官当時、貴族院で美濃部達吉博士を非難して総理に悪意の質問をする者に対し、「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」といった趣旨の答弁をして辞任に追い込まれ、浪人生活をしていたことが勲章になったのだ。吉田も、戦前に陸軍の反対で首相になれず、その代わりに首相なった広田弘毅が東京裁判で文人として唯一人死刑になったことと明暗を分けた。
湛山は、1943年8月にイタリア・ファッシズムの崩壊を見ると日本の敗戦を確信し、戦後経済の研究、講演を始めた。そして、44年8月には国際連合設立を目指したダンバートン・オークス会議が始まったとの報に接すると、日本においても戦後経済の検討が必要と公然と呼びかけた。労農派教授グループの大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎の無罪釈放の祝賀会を主催し、ここでも戦後経済を議論する場とした。10月には時の蔵相、石渡荘太郎を説いて、省内に「戦時経済特別調査室」を設けさせ、敗戦後の経済復興の問題の研究を開始した。敗戦が決定的になって、石橋の所論が政府に認められることになったのである。
そして、このことが戦後直後に石橋が議員当選を果たし、蔵相として人気が出たところでの公職追放の口実になった。アメリカは、明らかに、ロシアを自陣営にカウントして行動してきた間違いに気づき、冷戦に入ったのだ。そして、ロシアに支援され蒋介石の国民党政府を打ちました中国を認めようとしなかった。この点では、戦前の日本の見方が正しかった。そして、隣国との関係改善を望む石橋が現実を見据えていた。この石橋のアジア、ことに中華人民共和国との国交回復に対する思い入れをGHQは問題視した。GHQは吉田茂首相の存続の方が便利と見て、湛山を追放したのだとの見方が有力なゆえんである。ただし、アメリカの市場開放、GATTによる世界自由貿易体制が整い、日本の貿易立国を可能になり、湛山の唱えた小日本主義は吉田内閣のもとで復活した。産業主義を引き継いだのは有澤広巳であり、貿易主義を引き継いだのは、中山伊知郎であった。
だが、GHQが断行した政治経済改革は石橋の構想を上回る広範なものだった。華族制度の廃止と直接民主主義の徹底、象徴天皇への転換、財閥解体、農地解放などである。これらの政策は、むしろ先に触れた国民の代表である天皇と象徴天皇の一致にとどまらず、驚くほど北一輝の『日本改造法案大綱』に似通っている。また財閥解体があり、農地解放では、持てる者から持たざる者への財産移転という点で、その平等政策は徹底していた。ことに農地解放の徹底振りには、自由主義者、石橋湛山も小農を作りすぎないかと反対を表明したほどだ。
確かに、法の前の平等は、アメリカによって与えられたものだ。だが、平等意識の変化を考える時は、農地解放、労働三法の制定なども、単にそれだけのものとしてとらえるのではなく、あらゆるものが破壊された中で起こった負戦後のインフレーションの中で全員がたけのこ生活を送ったという原体験と重ね合わせて理解すべきだと、筆者は、学生時代に応募した懸賞論文の中で、書いたことがある。ピケティの指摘した戦前昭和の不平等がなくなっていたのだ。
北の政策とこれほどの一致があることは、GHQが北一輝を参照したことはほぼ間違いないだろう。ファシストとされる北とアメリカのニューディラーの生き残りたちとは共鳴するところがあったことになろう。また北自身もラディカル民主主義の実現に手段を選ばぬといったところが見られたが、生前にこのような形で自分の考え、夢が実現するとは考えていなかっただろう。だが、北によって戦前と戦後はフラットになっているのである。
とはいえ、ファシストとされる北が平和憲法につながっていくという見方に嫌悪を示す向きもあろう。
新憲法が平和憲法だという向きは、第2章の第9条の、戦争、武力の行使の放棄であり、軍備をもたないという宣言であろう。
だが、アメリカ流の「法の支配」では、条約が少しばかり高い位置から国内法をしばっているとの見なしているのだ。つまり、アメリカなどの国家の連合が日本を打ち負かし、民主主義、自由などの価値を共有する中で、日米安全保障条約、国連などが日本の安全保障をカバーしているから、あらゆるものが破壊された日本が時分で軍備など持つ必要はないとの意味をもつのだ。つまり、日本国憲法と日米安保条約とはセットになっているのだ。日本国憲法は、9条で戦争を放棄しているので、日本の安全保障は国連の枠組みの中で保障されなくてはならないことになる。それが、国連憲章52条の集団自衛権で、日米安全保障条約は、アメリカ側からみれば、52条の枠組みで日本との間で集団自衛権を行使していることになろう。
グローバル化時代の憲法解釈として、憲法92条2項の「日本が締結した条約及び国際法規は、これを確実に遵守すべきことを必要とする」という条文のもつ意味が、非常に「重要である」、あるいは「重要になってきた」、ように思われる。グローバル化した世界をガバナンスをつかさどっているものはなんだろうと考えをめぐらすとき、誰しもの頭に国連憲章、国連、国連機関といったことが浮かぶ。国連は、必要ならば国の同意がなくとも、制裁を課すこともできる。国連機関の中には、ILOのように各国に法を求めている、あるいは立法をしているような機関もある。
ところが、憲法前文にも「自国のことにのみ専念して他国のことを無視してはならない」と謳われているにもかかわらず、これまでのところ日本は、国内志向で、条約は、憲法と国内個別法のかぎりなく国内法に近い中間と位置づけられてきた。これは、憲法9条に関しての内閣法制局の解釈においても、同様であった。
こうした偏った解釈を繰り返して行っては、いつか行き詰ると考えていたのが亡くなった宮沢喜一だ。つまり、憲法9条に関しても、国連の集団自衛権から説き起こして説明することを始めなくてはならないと、2001年のサンフランシスコ条約50周年記念講演で主張していた。日米安保条約は、すでに日本はアメリカとの間で集団自衛権を行使し、国連憲章52条の集団自衛権の枠組みの中で行動してきたのだが、日本が戦争を放棄しているので、日本からの支援は得られない、片務契約ということになる。その代わりが基地の提供ということになる。
宮沢は、講和条約が終わっても、アメリカ軍がいつまでも占領軍のような顔をして基地を使っているのはおかしいという意味の発言をしてきた。日米対等というならば、基地を減らせ、その分、日本も応分の安全保障上の負担を増やすという姿勢へと変わらなくてはならないことになる。
客観的情勢の変化として、日本経済の実力は、世界第3の経済大国となり、円が1ドル、360円に固定されていた時代から、100円の時代へと変わってきている。覇権国、アメリカの凋落の問題も、そしてユーラシア大陸の西ではウクライナ問題が、東では中国台頭の中で南シナ海、東シナ海問題があり、また日本を取り巻く安保環境が変わってきていることも、今日、憲法と日米安保のセットを見直さなくてはならない大きな圧力でもある。
その意味では、集団自衛権問題が取り上げられるのも、そして戦前昭和とは、時とアクターを変えて、中国に向かって「法の支配」を説くのも、時代的な意義がある。
だが、過去の憲法解釈が偏ったものであったにせよ、その解釈もまた「法の支配」の一部であったとすれば、その連続性を超えた「解釈」は、法の支配の原則を自ら破るものだ。また、民主主義が定着してきたといわれながら、選挙における1票格差が最高裁から憲法違反だと判決されながら放置していることは、まさに三権分立を無視する行為であり、「法の支配」にもとるものだ。外に向かって「法の支配」をいうには、自らの「法の支配」の質を高めなくてはならない。
posted by 高橋琢磨 at 23:46| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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